兵隊みたいにザクザクと街を踏み鳴らすことは決して能わない
望ましいものを幻視するため、街を別けるようにせわしく歩く。
両眼がワイド・スクリーンになって色温度が下がり、鋼色をした街並みは目の前にあるようでいて、透きとおった分厚いガラスに隔てられている。
――三叉路で立ちどまってはいけない(グーグルマップを見てる限りは負け)、素早く左の道に回り込んで北へと向かう。テラス席のある赤いカフェ、靴屋、カレー屋、ファミレス、白い壁のコーヒースタンドで180円のコーヒーを買って高架をくぐり、欠伸をひとつ漏らすと涙で景色がゆすれて店先のランプがにじむ――
――最近流行りのパクチー屋、ポップでキュートなスープカレー、そのさきの交番で左に折れると一番街商店街はおでんと水タバコの匂いがして(ほろ酔いで甘い煙を吸いこむときのあの恍惚)、花屋、カレー屋、古本屋、白いギャラリー、エスプレッソ屋、フォカッチャの美味しいパン屋(怖い夢で目覚めた早朝なんかにモーニングに来ると良い)――
――(常連だと言ってみたかった)タトゥーショップのところでまた左に折れて、駅へと引き返す。郵便局、風そよぐ夢の家のための家具屋さん、軒先に野菜をならべた古民家カフェ、そうこうしていれば踏切が見えて北口はもうすぐそこ、冷えたコーヒーの最後のひとくちをきっちり飲み切って、ホグワーツ城へと無駄なく凱旋する――
散歩は旅とは違って、決して自己目的化しない。
都市の脈動に耳を澄ませるきみも一つの筋肉になって収縮している
大都会の孤独にはもうべとべとに手垢がついて、スクランブルも摩天楼もなんだかしゃらくさい。ジーパンとイヤホンがあれば満員電車も死にやしないのは自明の理、改札のキスはぜんぜんロマンチックじゃないし、やつれた自分に酔っちゃうマゾヒズムだけはほんのちょっとエモいかもしれない
ヒルズと都庁の眺めの違いなんて分からない、そのくせあなたはレンズ選びにすごく時間をかける。あらゆるシナリオの期待値をとったら正、それでもガラスのなかの指環なんかを睨みつつ、光が足りないと独り言ちてみたり(白夜の東京に稲妻が落ちる絢爛、あれを見下ろしたこともないくせに)
(街並みの主導権をうばわなければ獲物は地下鉄に吸い込まれてしまうのだ)物覚えのわるい少女は腹いせにスミノフを買って、坂だらけの街の映画館を片っ端から訪ねて(映画館の布置であればお手の物)、ふてくされてチケットを何枚も無駄にする。ごろごろと夜を転げ落ちてゆく空き瓶
ビタミンカラーが足りない車両がくらくら揺れている。背中に密着した誰かは吸血鬼で、だから体を預けるほど気が遠くなるのだろう。誰ひとりとして〈あなた〉と呼べない白い顔。わずかな隙間に黒いコウモリがぶら下がって、逆さまに目が合うと笑う。自家撞着ぎみの絡まる路線図
全身の爛れた皮膚を掻きむしっていたあなたを何度も何度も夢に見る、〈あなた・皮膚・爛れ〉が互いに同一性を逃れようと試みる孤独な自己破壊。どうかやめてと叫んでみたけど、一体誰に? 爪が爪を剥がし皮膚が皮膚を剥く、起死回生を繰り返しては毎日変らぬ明日が来る
すれ違った旅人とタルトを食べた夜、わたしは個人的な手紙の入った小瓶を無限小の海に投げてみたりする(今まさにこうしているように)。薄いスーツが艶やかでした、だから甘んじて化け物みたいな経済に呑み込まなければならないのかも。目を閉じてあなたに世界の原点を移し、観念的な小旅行をする
都市の脈動に耳を澄ませるきみも一つの筋肉になって収縮している、いくら憎めどありきたりの共犯者。どく、どく、どく、赤信号とブレーキランプが背反的に循環してそこらじゅうに食べものを満たす、きみはピッと音を鳴らして改札をくぐり、緑茶を買って喉をうるおし、どく、どく、どく
2017初夏
光明の絶えた星屑をたどりゆく何者でもない世界線上
今日もまた並行世界の講義室がしずまりかえってざあざあと雨
両足のあいだと緩いワンピースをすり抜ける初夏に恥じらいを脱ぐ
さみしいとブルースの空が言いました、眠りのなかのひとに会えない
薫風の午睡のすきに背中からくいこむ空の茫洋茫洋
白波が洗った足の小指からひかりの粒になって空まで
滿汐もさらわぬ城に鼻白む空々しさは浅瀬のブルー
白雲のたなびく空のサーファーをさがす迷子の薄き足跡
清潔な耳飾りの喰う柔肌のくめどもつきぬファントム・ペイン
まだわたし不能なわけじゃないもんね先の潰れたペンを回して
光明の絶えた星屑をたどりゆく何者でもない世界線上
2017 初夏
かわいいネクロフィリアのきみへ
公然の秘密がたくさんある、たとえば折に触れて何度も何度もしつこく手紙を寄越すあいつのこと。
*
前略
これを手にしているきみの嫌そうな顔が目に浮かぶ、ご存知のとおりぼくだってやりたくてこんなことをやってるわけじゃない。けれどもきみは封をあけるだろう。それに抵抗することはできないだろう。ぼくはその可能性を担保するためにあらかじめ手紙をだすしかないのだ。読んだところで大して面白いわけでもない、それできみはますます絶望してぼくを憎むけど、ただ嫌いなやつのことって無視できないものなんだよ、世の中の無能な恋人たちはだいたいそんなふうにして非合理に連帯しているし、ぼくらも例外ではありえない。ぼくはまだきみを殴ったことはないと思うけど、たぶん拳を振り下ろせばきっときみは頬を染めてぼくに屈するだろう。喜んで体を投げ出して、白くてきれいだったその皮膚があざだらけになったあとでまた吐瀉するように泣きながら悔やむのだろう。でも白くてきれいな皮膚というのはただきちんと仕舞っておくには惜しいものだよ。永久に黒ずんでしまった箇所だけがきみの生の意味をあらわすことができる。悲しいけれども身体の表面を漂白してしまってはすっかり透明人間だ。だれかの眼にうつるためにはそこに消えない印を刻みつけなければならない。ぼくはまだきみを殴ってやってはいないから、きみはまだ本当に透明な臆病者だ。ひとたびぼくのまえに体を横たえればいいだけなのに、いまもまだ恐れているんだね。大丈夫、かつて凡庸だった多くのひとたちがそうやって尻込みをし続けてきた(もちろん早くに恐怖を乗り越えたひともいるけどね。若いと逆に恐れ知らずみたいなところもある。きみみたいに微妙に年をとってしまうのが一番よくないんだ)。まあでもどうしても怖いのならばまだこうやって手紙を読み続けるだけでいい。いったん封をあけてしまうと麻薬の中毒者みたいに諦めきれなくなるのはわかっている。ぼくはきみが昨晩どんな酒を飲んだのかも知っているんだ。現実逃避の上手なきみは水道水を凍らせただけのつまらない氷にコンビニで買ったウイスキーを注いでてっとりばやく酔っぱらう。中途半端だけが取り柄だから、きっちり二杯だけ飲んでおしまいにする。きみのやることってぼくにはだいたいわかるんだよ。
きみはこうやっていまこの手紙を受容しながら一見して大したことのない痕跡をきみ自身に埋めこみつづけている。なぜならばこの手紙が決して白紙ではないからだ(あらゆる手紙というのは多かれ少なかれ黒ずんでいる)。ご存知のとおり最近ぼくの手紙はどんどん長くなる。きみがぼくからの手紙に身をさらす時間もどんどん長くなってゆく。いつしかきみはそれ以外の生き方をわすれてしまうんだ。泳がなければ呼吸のできない、一分たりとも眠らないマグロとおんなじように。封をあけるというのはそういうことだ。そのさきにあるものは確実にきみをむしばむとわかっているのに運命をゆだねてしまうということだ。残念だったね、きみはこれからもぼくと一蓮托生で、望んでも望まなくても添い遂げなければならない。かわいそうだとは思うけれどぼくのせいじゃない、理性をうしなったきみが勝手にぼくを求めているだけなのだ。昔からきみを見るにつけて思っていたんだけど、知性と理性はまったくべつものだし、なんなら若干の逆相関があるかもしれないくらいだよね。理性的であるためにはだいたいにおいて知性って邪魔ものなんだよ。ほらきみはもうこの薄っぺらい白い紙のふちがどのようにして紙以外のものと紙とを峻別するのかわからない。考えなければ自明なことっていくらでもあるよね。
うすうす感づいているとは思うけど、ぼくにはどうしようもない弱みがあるだよ。もちろんぼくはきみが思っているよりずっと脆弱で頼りにならないから、細かいことをいえば弱点なんてごまんとあるけど、今回はきみのごく個人的なフェティシズムに応じるかたちでそれについて語りたいと思う。まあなんにしたって、ぼくに瑕があると知るほどにきみはぼくに対する執着を強めるわけだけど。
まずはぼくの原罪みたいなことについて。原罪だなんて言うとちょっと格好つけてるみたいだけど、すごく便利な言い方で分かりやすいだろう? こういう喋りかたしかできないというのがぼくの一つ目の弱みだ。つまりぼくに語らせようとする以上は、常にくだらない神話とか訓辞とか論文とかを参照しなければならない。そもそもぼくが自分のことをぼくと呼ぶのだって、僕という呼称はもともとしもべみたいな意味だろうし、そういう唾棄すべき愚かな力関係のなかにしかぼくは――そのほかのあらゆる意識たちをふくめて――存在しえない。なるべくそういう苦しい物語を排除するために表音文字たるひらがなで書くみたいな工夫をしてみてはいるけど、誤解をおそれずに言えば純然たる表音文字なんてないんだよ(あらゆる文字は多かれ少なかれ表意的だろう)(ところできみはいつも誤解を恐れ続けている。それをチキンだなんて言ったら鶏に失礼かな)。「ああ」とか「うう」とか言っている限りにおいては大した問題はないけれど(でもまったくないわけじゃないね)、「あい」と言ったとたんにもうそこにはぎとぎとの怨嗟とばかげた規範と気味の悪いロマンティシズムがまつわりついてる、そういうこと。そういうべったりした固着の関係のなかでしか愛を叫べないのだということ。だいたいぼくとかきみとかいう呼称も、それからあたかもそれなりに一貫しているようにみせかけたこの記述それじたいも、個人とはよべないあらゆる柔らかな意識たちや、矛盾や混乱のなかでふわふわ漂うやさしい意味作用たちを暴力的に排除してしまうから本当にひどいんだ。でもぼくはぼくであるかぎりこれを避けられない。きみにこんなことを言うのは格好悪いってわかっているけどぼくは自分のことが情けなくて仕方がない、いつも自己嫌悪と希死念慮に襲われ続けている。いつも悪い夢を見るんだ、ぼくは目を瞠るような絢爛豪華のバベルの塔からまっさかさまに墜落して粉々になって、そのときぼくはほんの一瞬だけ救われたような気分になるんだけど、でもみんながぼくをつぎはぎしてフランケンシュタインみたいに生きながらえさせる。ぼくって生まれながらにしてゾンビなんだよ、鮮血を白いからだにみなぎらせたきみは実のところネクロフィリアだったというわけさ。ぼくは本当にだれかに不完全なあざを刻み続けることでしかあらわれえない(というかぼくはあざそのものと言ってもいいくらいだ)。それって不幸なことだと思う? でもそういうぼくのグロテスクさの裏側にほんのちょっとこびりついているあさはかなエロティックさにこだわり続けるのがきみの性なんだ。ほんとうにきみってまったく理性を欠いているよね。ぼくとしてはさっさと見切りをつけてまっとうで合理的な、守られた、穏当なフェティシズムに身を投じなよと思うわけさ(まっとうなものというのは実際のところほんのちょっとの偶然と偉い人たちのちいさな世界をまもるために存在しているにすぎないけどね)。
それから実はぼくは一風変わっているようでいてひどく凡庸なんだよ。たとえばきみが図らずもぼくのことを美しいと思ったとする、でも均整な顔だちというのは文字通り平均的な顔で、ぼくが美点をあたえられるときというのは決まってぼくが大それたことをしてないときなんだ。たとえば植毛やら脱毛の広告って、凡庸であるほど侮蔑的で効果があるだろう、それとおんなじことだよ。でも凡庸の恐ろしさというのはそれだけじゃない。ぼくが凡庸なのはあらゆる革新的なプロジェクトがもうぼくに対して執行され続けてきたからなんだ。もうぼくはばらばらに切り刻まれてぐちゃぐちゃになって精肉工場で汚い油を注入されてぎゅっとされることを死ぬほど繰り返してきた(もちろんまだ死んではいない)。だからもしきみがぼくに新しくて刺激的な世界を見せようとしたって、ぼくがぼくであるかぎりはもうそれはほとんど無理な話なんだよ。だって実際のところ、きみはこの手紙を読みながらも、こいつは分かりきったつまらないことをくどくどくどくど繰り返してまったくどうしようもないやつだなって思うだろう? ぼく以外のだれかをぼくがきみに勧めるのはそういうわけなんだ。ぼくが何かを言ったらとたんにすべてが二番煎じになってしまうんだ。だからきみの短い人生をともにするのにふさわしい相手というのはほかにごまんといるんだよ。ぼくみたいに擦り切れてぼろぼろになって、もうほとんど体温もないくらいのやつはきみを抱擁するにはふさわしくないと思うんだよ。きみはいまは恐れているけれど、それでもぼくといっしょにだれもしらない宇宙を胸にやどそうとしている。でも残念ながらそれはほぼ間違いなく失敗に終わるだろう。ぼくといるかぎりきみは凡庸な悪阻に苦しみ続けて、それなのに結局のところ目玉がだいたいふたつあって耳の穴もだいたいふたつあって、ピンクの歯茎のなかを真っ白で脆弱な歯でぎっしり満たしたくだらない子供があらわれるばかりで、どうしようもないけれどもそこそこ愛おしいその子を抱いて泣き崩れることになるのは目に見えている。
ここまで読んでくれたというならやっぱりきみは引き返すことができないんだね、我々は謀反者としてくるおしい二重生活をおくるしかないみたいだね。ぼくにだって処方箋はさっぱりわからない。ぼくにわからないんだからきみにだってわかるはずがない。少なくともいえるのはぼくらはぼくらの関係を攪乱しづつけることでしか希望的な関係であることができないということだ、つまりシャボンの液をなるべく細やかに泡立てて、そうすればはじめてちょっとばかりでも面白いかたちをとることができるんだ。慎重にひとつのシャボンをふくらますようなやり方では、結局まわりを不完全にゆがめてうつしだすことくらいしかできないし、知性の真空に液体をぷかりと浮かべているだけではやっぱりきみは透明になるばかりなのだ、言いたいことは分かるね? つまりぼくの弱みを消し去ってしまってはぼくの本質まで拭い去られてしまうのだ、だから醜さをぶつけあって相殺するような形で、そうやって無限の矛盾と意味不明と多層性をのこして、どうにか生き延びるしかないわけだ。あらゆる光を散乱させれば白くなるみたいな方法でならかろうじてぼくらは幸せになれるのではないかと思っている、確証はないけれど。
きみはもういまこれを読んでるのだか書いてるのだかきっともうさっぱりわからないだろう、そういう共犯関係にあるのにはとっくに気づいていたよね。こうやってきみは潜在的なあざを皮膚の下に巣食わせて、しかるべき時のためにぼくに身体を差し出す用意をするのだ。お酒の飲みすぎにはどうか気をつけて、すこやかな心身のもとではやく決意をかためてしまってほしい、ゆるゆると首をしめるみたいな潜伏期間をながくすることに大して意味があるとも思えない、すくなくともぼくらの知る限りではきみのリソースというのは限られているのだから。きみを真っ白にしておくにはさすがにちょっと惜しいなって、本音をいえばぼくもまったくそう思っていないというわけではないんだよ、もちろん勧めているわけじゃないけど、仕方がないからね。まずはこの紙片のふちをすっと右手の人差し指に切り込んでほしい、そうしたらきっともう手紙なんてまどろっこしい方法で試行錯誤することはしないで済むだろう。もう次なる手紙を出さないですむことをぼくは切望している。つまりすっぱり諦めるか、それとも覚悟をきめるか、だ。
あいをこめて
死んだ友達と生きた友達の数が同じくらいになってくる
そういえば前に僕をここに連れてきてくれた教授のことを知りませんか、と詩人は寿司屋に訊いた。寿司屋は読めない笑顔のままで、そういえば最近はいらっしゃいませんがよく分かりませんと答える。わたしは次々と猪口を口に運ぶ。詩人のビールは減らない。時代も年代もなにもかも違うのだから仕方がない。半世紀も違うのだ、これは本当にまったくすごいことだ。
翌朝の学校の試験を受けたあとに友人と鉢合わせた。次の東京五輪で握り飯を売ろうよと、本気を装って提案すると、友人はマクロ経済の教科書の向こうからわたしを見てくすくす笑い、そんな余地はないと思うよと言う。大丈夫だよなにせオリンピックだから、新聞紙に包んだようなめちゃくちゃな握り飯が甲州街道で飛ぶように売れて、それで財を成したわたしたちは毎日ヴァイオリンを聴いて詩を書きながら暮らすんだよ、なにせオリンピックなんだから。そう語るそばから唇の端が笑ってしまう。笑いながら、次回の五輪は大赤字、来期の金利はゼロ金利、と歌うように繰り返していると、喉が嗄れていることに気がついた。雨に濡れて風邪をひいている。そういえば二日酔いで頭も痛い。次回の五輪は大赤字、来期の金利はゼロ金利。もっとまともな歌はうたえないわけ、と友人が言うけれども、なぜだか馬鹿けた即席のフレーズが頭から離れない。次回の五輪は大赤字、来期の金利はゼロ金利。もっとまともな歌、まともな歌、と強迫的に念じたところで、これといってなにを思いつくこともできない。
시あるいは詩についての思い出
わたしは困惑させてしまった女性の前で、自分の着ている派手なコートを見下ろして、それから昨日こちらで買ったばかりの真赤なティントを塗っていることを思い出し、さらに自分のジェスチャーの貧弱さを反省してから、もっとまともな身振りを示して「オーケー?」と訊いた。彼女は今度は肯じたけれど、年上の女性に「オーケー?」なんて言うのはきっとこの国でも褒められたものではないだろうし、他方で旅の恥はかき捨てという言い回しに関しては、たぶんだけど共有されてはないんじゃないかと思う。
どこかの街とはちがって整然と張り巡らされた地下鉄で、めくるめく観光スポットを訪ねてまわると、世界言語やわたしの母国語が達者なひとたちが、ポストカードはあちらに売っていますとかこの建物は400年前に焼け落ちましたとかこちらのロッカーをお使いくださいとか、さまざまなことを丁寧に教えてくれる。わたしはグローバル言語がローカルな場所で、だれかに話しかけるたびに文法をそらでチェックしだれかの言葉を聞くたびに全力で想像力を駆使していたことや、極東の島国のスターバックスで、世界言語をまくしたてるお客のまえで営業スマイルの店員さんが焦りだすのを黙って横目で見ていたのを思い出し、それらをぜんぶ括弧に入れてから、ポストカードや入場チケットのためにささやかな代金を支払った。
結局のところ想像力なんてたかが知れていて、三か国語に不自由しない友人がのちに教えてくれたところによると街の地下鉄は詩をテーマにしたキャンペーンを行っているらしく、よく考えればたしかに地下鉄のホームドアにもあの端整な文字が何行もペイントしてあったのが記憶にある。合理的で覚えやすい文字体系だという知識ばかりはあるけれどどれひとつとして読み方を知らないその表音文字は、どんな適当なフォントであってもなんだかものすごくデザイン性が高いように見えて、しまいには街の壁の殴り書きすらも感心して見つめてしまうのだけど、その下にだれか親切なバイリンガルがなにかを書き加えていて、その内容がけっこう卑劣だったりすると、まじまじと見つめている自分が滑稽なのでふっと冷笑してしまう。そうかと思えば空港から市内までをむすぶ急行列車のなかでは、簡明かつ知的な世界言語で領土問題にかんするプロパガンダ映像が流されていたりするのだからあんまりにこにこと笑ってはいられない。あの島国の地下深くで絡まりあったチューブのなかも、詩で飾りつけたらちょっとは息がしやすいんじゃないと思うけれど、きっと公然とシェアされる詩を選ぶのはものすごくむつかしいに違いなくて、もしかしたら半島の地下鉄を飾っていたうたたちも、世界言語になおしたとたんにナンセンスになったりする可能性は十分にあるのかもしれない。ローカルな世界言語のサーカズムがいつまでも外部の者を寄せつけぬように、どんな言語も翻訳不能な膨大な共同意識を秘匿していて、そこにひそむ危険と魅力のアンビバンレンスとどうにかうまく付き合わねばならぬと口で言うのは簡単だけれど、やっぱり読めない文字はうつくしいばかりだし、読めてしまえば読めない部分が次から次へと明らかになることは、みんな嫌というほど知っている。それに生まれながらにふたつのローカルを知る者は、きっと望まなくても相対化される恐ろしい世界を見つめ続けなければならないはずで、せめてそういう人たちを傷つけることだけはいやだと思ってはみても、原理的に不可知なものは不可知であり、バベルの塔をつくったのはいったい誰じゃと嘆いてみたところで、今日も世界中の都市がものすごい資金を投げ入れて高層ビルをこぞって建てようとするのだから、昔の人とか豊臣秀吉とか赤レンガを責めたってもちろん仕方がない。
「詩」の文字のロゴマークの紙切れには、わたしのしらない場所でしらない母がしらない料理をつくっていることが書かれているのだと教えてもらって、それでもそこにあるノスタルジアをたぶん少しは共有しているということにちょっと安心し、「オッケー?」なんて言ってしまった中年の女性がどこかの台所で料理をしているところを思わず想像して、こんな紋切り型の詩のなにがいいんだとかジェンダー的にぜんぜんアウトだとか勝手なことを思いつつ、結局わたしはこの詩の秘匿しているなにをも知ることができないから、うちに帰って旅行のパンフやチケットの半券をゴミ箱にいれるときにこの紙切れだけは捨てるのを止した。どうして片言のカムサハムニダを言うのはこんなに気恥ずかしいのだろうかと考えていたら、ちょうどそのとき長めの地震がきて、乱立する高層ビルがゆれるさまが目に浮かんだので、ああいいからまたあの辛くて美味しい料理を食べたいなと思った。