시あるいは詩についての思い出

「これを持っていってもいいですか?」と駅構内をあるく中年の女性に世界言語でぬけぬけと話しかけて、申し訳なさそうに首を横にふられたので、こちらも申し訳なくなって少し後悔したけれど、きれいに細くまるめられたその紙切れを手に入れられたのは結果的にはかなり素敵なことだったので、彼女には感謝しなければいけない。その紙切れがたくさんしまってある郵便ポストのような箱には、"Take Free"ではないわたしのしらない文字と言葉でなにかが説明してあって、ロゴマークにふくまれている「詩」という文字に惹かれてそれが欲しくなってしまったのだけど、いったいそれが何なのかはさっぱりわかっておらず、わたしは旅行気分でうかれた頭をひねりながら、たとえば大学の文学部が広報のために駅で詩を配っているのじゃないかしらなどと思っていたが、ずいぶんとんちんかんな当て推量だ。

わたしは困惑させてしまった女性の前で、自分の着ている派手なコートを見下ろして、それから昨日こちらで買ったばかりの真赤なティントを塗っていることを思い出し、さらに自分のジェスチャーの貧弱さを反省してから、もっとまともな身振りを示して「オーケー?」と訊いた。彼女は今度は肯じたけれど、年上の女性に「オーケー?」なんて言うのはきっとこの国でも褒められたものではないだろうし、他方で旅の恥はかき捨てという言い回しに関しては、たぶんだけど共有されてはないんじゃないかと思う。

どこかの街とはちがって整然と張り巡らされた地下鉄で、めくるめく観光スポットを訪ねてまわると、世界言語やわたしの母国語が達者なひとたちが、ポストカードはあちらに売っていますとかこの建物は400年前に焼け落ちましたとかこちらのロッカーをお使いくださいとか、さまざまなことを丁寧に教えてくれる。わたしはグローバル言語がローカルな場所で、だれかに話しかけるたびに文法をそらでチェックしだれかの言葉を聞くたびに全力で想像力を駆使していたことや、極東の島国のスターバックスで、世界言語をまくしたてるお客のまえで営業スマイルの店員さんが焦りだすのを黙って横目で見ていたのを思い出し、それらをぜんぶ括弧に入れてから、ポストカードや入場チケットのためにささやかな代金を支払った。

結局のところ想像力なんてたかが知れていて、三か国語に不自由しない友人がのちに教えてくれたところによると街の地下鉄は詩をテーマにしたキャンペーンを行っているらしく、よく考えればたしかに地下鉄のホームドアにもあの端整な文字が何行もペイントしてあったのが記憶にある。合理的で覚えやすい文字体系だという知識ばかりはあるけれどどれひとつとして読み方を知らないその表音文字は、どんな適当なフォントであってもなんだかものすごくデザイン性が高いように見えて、しまいには街の壁の殴り書きすらも感心して見つめてしまうのだけど、その下にだれか親切なバイリンガルがなにかを書き加えていて、その内容がけっこう卑劣だったりすると、まじまじと見つめている自分が滑稽なのでふっと冷笑してしまう。そうかと思えば空港から市内までをむすぶ急行列車のなかでは、簡明かつ知的な世界言語で領土問題にかんするプロパガンダ映像が流されていたりするのだからあんまりにこにこと笑ってはいられない。あの島国の地下深くで絡まりあったチューブのなかも、詩で飾りつけたらちょっとは息がしやすいんじゃないと思うけれど、きっと公然とシェアされる詩を選ぶのはものすごくむつかしいに違いなくて、もしかしたら半島の地下鉄を飾っていたうたたちも、世界言語になおしたとたんにナンセンスになったりする可能性は十分にあるのかもしれない。ローカルな世界言語のサーカズムがいつまでも外部の者を寄せつけぬように、どんな言語も翻訳不能な膨大な共同意識を秘匿していて、そこにひそむ危険と魅力のアンビバンレンスとどうにかうまく付き合わねばならぬと口で言うのは簡単だけれど、やっぱり読めない文字はうつくしいばかりだし、読めてしまえば読めない部分が次から次へと明らかになることは、みんな嫌というほど知っている。それに生まれながらにふたつのローカルを知る者は、きっと望まなくても相対化される恐ろしい世界を見つめ続けなければならないはずで、せめてそういう人たちを傷つけることだけはいやだと思ってはみても、原理的に不可知なものは不可知であり、バベルの塔をつくったのはいったい誰じゃと嘆いてみたところで、今日も世界中の都市がものすごい資金を投げ入れて高層ビルをこぞって建てようとするのだから、昔の人とか豊臣秀吉とか赤レンガを責めたってもちろん仕方がない。

「詩」の文字のロゴマークの紙切れには、わたしのしらない場所でしらない母がしらない料理をつくっていることが書かれているのだと教えてもらって、それでもそこにあるノスタルジアをたぶん少しは共有しているということにちょっと安心し、「オッケー?」なんて言ってしまった中年の女性がどこかの台所で料理をしているところを思わず想像して、こんな紋切り型の詩のなにがいいんだとかジェンダー的にぜんぜんアウトだとか勝手なことを思いつつ、結局わたしはこの詩の秘匿しているなにをも知ることができないから、うちに帰って旅行のパンフやチケットの半券をゴミ箱にいれるときにこの紙切れだけは捨てるのを止した。どうして片言のカムサハムニダを言うのはこんなに気恥ずかしいのだろうかと考えていたら、ちょうどそのとき長めの地震がきて、乱立する高層ビルがゆれるさまが目に浮かんだので、ああいいからまたあの辛くて美味しい料理を食べたいなと思った。