灰色の三陸旅行で出会った愉快なひとたちについて

僕を忘れてくれるまで

足の赴くままに山道を歩いているとあっというまに日は傾いて、北国は日が暮れるのが早いな、と呑気に構えていると、いつのまにやらもう終バスの時刻が過ぎているのだった。弱ったなと思った矢先に、やたらとのろのろ走る乗用車が現れた。シルバーのカローラ。地元の人間ではないなと思った。ナンバープレートは隣町のものだから、十中八九レンタカーだ。
カローラは頼んでもいないのに路駐して、男女のカップルが仲良く降車した。年齢は三十そこらといったところか。小奇麗な身なりをしている。中流の上。二人はガードレールから身を乗り出して、なにかを眺めている。視線のさきになだらかな丘陵があって、その頂上にたしかに整ったかたちをした枯れ木のシルエットが浮いている。灰色の寒空を背景にすっくと立つ。美しいが、ただそれだけだ。
私はその樹木に興味があるふりをして、カップルに近づき、すみません、と声をかけた。
「バスを逃してしまって。もし市街地の方まで戻られるのなら――」
「ええ、乗っていかれて構いませんよ」
男は即座にそう答え、私は礼を言って、きちんと片付けられた後部座席に乗り込んだ。男が運転席に、女が助手席に乗り込み、不慣れな手つきで男はカーナビを操作する。そのあいだに女は私に話しかけた。
「大学生ですか?」
「ええ」
「このまま宿に戻られるんですか」
「ええ、そのつもりです」
話しているうちに車は発進し、山道を下り始めた。
「『遊園地』には行かれましたか?」
「ああ、いいえ、行ってません」
「『遊園地』は知ってるでしょう?」
「ええ、観光情報サイトに載っていた気がします」
「そうでしょう、いい場所だから」
「そうなんですか?」
「そうよ、知らないの?」
男女は顔を見合わせる。
「僕は東京出身なんだけど、『遊園地』に行くのをずっと楽しみにしてたんです。彼女はこっちが地元で、もう何度も行ったことがあるらしいんだけど」
「でも、あそこは何度行っても飽きないもの」
「そんなにいい場所なんですか」
「私たちはこれからそこに行くつもりなんだけど、あなたもいらっしゃらない?」
「そこからなら、確かもっと遅くまで街までのバスが出ていたと思うし」
「そうなんですか、では、ぜひ」
もとより目的のない旅だったので、誘いに乗ることにした。『遊園地』がどんな場所だったかいまいち思い出せなかったので、観光情報サイトをもう一度見てみようと思ったが、スマホは圏外だった。そうこうしているあいだに車はふっと横道に逸れて、気付いたときには広い駐車場に到着していた。こんな辺鄙な場所なのに駐車場は満車に近い状態で、停められてよかったねと男女は口々に言いあっていた。二人が絶賛するだけあって確かに人気があるように見受けられた。
礼を言って車を降りると、あなたも楽しんでね、と言うやいなや、二人は手を繋いで入場口へと駆けていってしまった。一体なにがそんなに楽しいのだろうかと思って、私も入場口まで両手をポケットに突っ込んで歩いていった。日は完全に暮れて、吐く息ばかり白かった。入場口の向こうの方には色とりどりの明かりが見えた。たぶんアトラクションがライトアップされているのだろう。
大人は千円、子供は五百円。料金を支払ってゲートをくぐると確かにそこは遊園地だったが、しかし少なくとも私がこれまで見たことのある中で最もみすぼらしい遊園地だった。観覧車もジェットコースターも、暗い中でもそれと分かるくらいぼろぼろに錆び付いていた。メリー・ゴー・ラウンドは調子っぱずれの音を鳴らしながらぎしぎしと回転し、ゴーカートの半分くらいはうんともすんとも言わないようだった。母親の田舎にある古代遺跡のような遊園地もここに比べれば遥かにまともだったように思う。それなのに老若男女が寿司詰めになって浮かれているのだった。あからさまに後から取り付けたのだと分かる電飾が安っぽく光って、ことさら妙に賑々しかった。
気味が悪いので引き返した。本当にここから出る終バスがあるのかどうか不安になった。寒さはますます厳しくなっているようだった。
不安な心持ちのまま駐車場を一周ぐるりと回ると、果たして駐車場の隅っこにバス停らしきものがあった。しかもそこに先客があったので私はやっと安堵した。
「市街地まで行くバスですか」
先に待っていた人に、私は訊ねた。それは随分と古風な身成をした男だった。ハットを目深にかぶり、ステッキをついている。暗いので顔立ちはわからない。ひどく寒そうで、襟を立てて顎をうずめ、マントを身体にきつく巻いている。
「そうですよ、次が最後の便です」
「間に合って良かった」
「もう間もなく来ますよ」
男の言った通り、バスはすぐにやってきて扉をひらいた。私は急いで乗り込んだが、男はその場を動かなかった。
「乗らないんですか?」
「乗れないのですよ、みんなが僕を忘れてくれるまで――」
彼の鼻の先で扉は閉まり、バスは発進した。背後を振り向くと遊園地はやはりきらきらと光りかがやいている。誰一人帰る気はないらしく、駐車場には車が増えるばかりだった。

あたし結婚したのよ

冷たい外気を逃れるように店内に入ると湯気がもうもうと立ち込めていた。油と味噌の匂いがする。細い板を張り付けたような狭いカウンター、その背後に押し込まれた小さなテーブル席。相席でよろしいですか、と割烹着を着た老女は私に尋ね、私の答えを待たないまま烏龍茶の入った湯呑をテーブルにガタンと乗せた。

相席の相手は若い女だった。私の向かいで丸い顔を火照らせ、昼間からジョッキで生ビールを飲んでいる。

「旅の人なの?」

と女は呂律の回らない口調で私に尋ねた。ええ、そうです、と軽くあしらい、ラーメン小盛り一つ、と店の奥に向かって出ない声を振り絞る。店は狭く、客は黙々とラーメンを食っているだけなので、幸い注文はすぐに通った。

「ねぇあたし結婚したのよ」
「はぁ、おめでとうございます」
「誰と結婚したのか当ててごらんなさい」
「はぁ?」

旅人だと今言ったばかりではないか。知りませんよ、となるたけ素気なく言い、女の背後にあるTVに関心があるふりをした。小さくて分厚い液晶TVが天気予報をやっている。このあたり全域で曇り時々雪、あたたかくしてお出かけください。天気予報なら出発する前からざっとネットで調べてある。

「ねぇあなたの知ってる人なのよ。当ててごらんなさい」

女は構わず続ける。そんなわけがあるかと思ったが、あまり邪険にできない。柔らかそうな女の左手に指輪がないことを認めたからかもしれない。しかし昨今、結婚指輪を常につけているほうがむしろ珍しいのではないか?

「随分酔っておいでのようですね」
「そうなのよ」
「良かったら私のお茶をどうぞ」
「要らないわ、酔いにきたんだもの」

女は焦点の合わない目を細めて愛嬌のある笑みを見せ、それから手元の餃子を続けざまに三つも食べた。

「餃子美味しいわよ、あなたも要る?」
「いいえ、結構」

言い合っているうちに自分のラーメンが来た。太麺の味噌ラーメン、そもそもこの店はいわゆるこの地方での名店だと言われているからやってきたのだったのを思い出す。ひとくち啜ると確かに旨いような気もするが、あまり料理に傾注できない。

「もし質問がむつかしいのならね、結婚相手の職業を当ててごらんなさい」
「変わった職業なんですか」
「ええとっても。これで易しくなったでしょう」
「別に……」

空になったジョッキを女が少し持ち上げると、割烹着の老女が素早く新しいビールと取りかえる。女はそれを飲んでますます顔を赤くし、あなた勘の悪い人ね、つまらないわ、とぶつぶつ文句を言った。

「ああ、本当つまらないわ」

女は言い捨てて、やにわに席を立ち、レジに千円札を叩きつけて去っていった。一瞬店内に冷たい風が入り、それから戸はぴしゃりと閉じられる。引き戸に嵌められたガラスがびりりと震える。

我に返って手元に視線を戻すと、いつのまにやら自分はラーメンをもう殆ど食べ終えていた。具材も味も覚えていない。厭な目に遭ったと内心舌打ちする。

「すみませんねぇ」

とジョッキと餃子の皿を片付けながら割烹着の老女が言った。

「あの子は、最近いっつもこんな調子で、どうしたものかってね」
「それで、彼女は誰と結婚したんです?」
「さぁ、よく分かりません」
「逃げられたんですか?」
「いや、確かに結婚はしてるんです」

そのとき思い出したように咳が出始めて、しばし咳きこんでいるあいだに、老女はテーブルを離れて仕事に戻ってしまった。粘っても仕方なさそうだったので、器の底で伸びた麺を烏龍茶で流し込み、会計を済ませて店を後にした。

 

あたしこんなやつらと同じ風呂になんて入れないわ

「こちらも駅の正面に到着しているのですが――」
おかしいですね、もう少し探してみますと言って電話を切った。宿泊先から送迎を頼んだのに、落ち合えないでいるのだった。宿泊先のオーナーは黒い上着を着ているのだと聞いていた。私の方は青いリュックサックを背負っていると伝えてあった。ごく小さな駅なので、互いに到着しているのに会えないというのは妙だった。
そのとき、駅の前であたりを見まわす、黒い上着の女と目が合った。
「**旅館の方でいらっしゃいますか」
彼女はしばしじっとこちらを見て、それから「ええ、お待たせして申し訳ございませんでした」と言った。小柄な初老の女で、こじゃれた感じに髪を結い、細くつり上がった目元がきりりと涼しい。私は名を名乗り、わざわざありがとうございます、と礼を言った。
「とんでもない。さあ参りましょう」
彼女は白い軽自動車をドアを開け、私は助手席に乗り込んだ。彼女はエンジンをかけると、意外なほど強くアクセルを踏んで車を急発進させた。
「山の方なんですか?」
事前に宿の場所をよく調べておかなかったので、私は訊ねた。
「ええ、山の方の一帯では温泉が出るんです」
到着したのは想像以上に古ぼけた温泉宿だったので度肝を抜かれた。それだのに「ブッキングドットコム8.5点」だとか「トリップアドバイザーリコメンド」とかいうステッカーが正面扉のガラスの隅っこに貼ってあるから笑ってしまう。「じゃらん」や「楽天」ならまだ納得がいくのだが、と半分本気で思った。腰が海老のように曲がって、まぶたがとろんと垂れた老人たちが、紺の浴衣を着てのそのそと歩き回っている。みんな揃って肌つやがよく、髪や髭も白くてふさふさしている。携えたプラスティックの籠には、シャンプーと石鹼と温泉タオル。
私とほとんど同時に到着したらしい若い男女も、怖々とあたりを見渡していた。糸目の男にまんまるの目をした女。男の方はやけに印象の薄い姿をしているが、女の方は等身大のバービー人形のようで、あの顔をつくるために彼女はいったい何を何層塗り重ねたのだろうと私は数えて楽しんだ。化粧下地、コンシーラ、ファンデーション、フェイスパウダー、チーク、フィエスシャドウ。
黒い上着を着ていた女はいつのまにやら古風な女中の姿になって、私や若い男女から大きな荷物をもぎ取るように奪い、浴衣とタオルを押し付けた。「お食事の前にお風呂をお楽しみください」と言って、三人をまとめて混浴風呂の暖簾の向こうに押しやった。
脱衣所はむっと湿気て、硫黄の匂いに満ちている。男だか女だか分からないような老人たちが、せっせと浴衣を脱いだり身体を拭いたりしている。
「……何なのよ」
カップルの女の方が無理に気取った声で言った。それでも声はなんだか震えている。
「あたしを誘っておいてこんなところに連れてくるなんて一体どういうつもりなのよ」
印象の薄い男は薄い笑顔で「まあまあ」と言った。
「まあまあじゃないわよ、大体どうしてこんなよぼよぼの年寄りたちと一緒に混浴風呂なんかに入らないといけないのよ。こんなの聞いてないわよ、高級旅館って言ったじゃないの」
「ここは伝統ある由緒正しい旅館だよ」
「嫌よあたしこんなやつらと同じ風呂になんて入れないわ」
すると脱衣所にいた老人たちが揃ってきっと顔をあげた。
「何見てるのよ」
彼女が強がったような声で言い放つと、それを皮切りに老人たちはわっと彼女に詰め寄って、一斉にハイヒールを取りあげ、毛皮のコートを剥がし、ワンピースを切り裂き、きらきらした下着を脱がし、それから誰かが風呂場の戸をさっと開けて、彼女を湯船に勢いよく放り込んだ。
バービー人形は弧を描いてちゃぷんと白い湯に沈む。いかにも効用のありそうな濁り湯が、四方八方にぴしゃぴしゃと散る。そういえばと思ってふと見渡すと、カップルの男の方はどこかに紛れてしまっている。
「ちょっと、あたし泳げないの知ってるでしょ、ねぇ、あんた――」
湯船で何を戯けたことをと思ったが、確かに彼女は必死で水面に顔を突き出しているのだった。どうやら相当深いらしい。彼女の頬からシェードが消え、チークが消え、薄桃色の粘液が顔面でどろどろ粘っていた。綺麗にカールされていた真黒な髪が、水と湿気を吸って沼にはびこる藻のようにふくらんだ。
老人たちは何事もなかったかのように、暴れる女をなんとなしに避けて、器用に立ち泳ぎをしながら深い湯に浮かんでいる。湯船は結構広かった。
「ねぇ、助けてよ、だれか――」
彼女がそう言ったときには、私ももう服を脱いで老人たちに紛れていた。私は立ち泳ぎができる。大嫌いだったスイミング・スクールで子どものときに仕込まれたのだ。ふと横をみると、印象の薄い糸目の男もそしらぬ顔をして立ち泳ぎしている。女の声がだんだん弱くなる。湯けむりが濃くなって視界が白く染まる。何もかもが白い、湯けむりも、濁り湯も、だれもかれもの髪の毛も。