読まれない文章は不完全だと主張したい

「言葉が世界を分節するならば、看板と標識の違いについて考えてみなくてはなりません」
 
あなたが寄越した手紙はこのように始まっていた。無地の便箋に、神経質そうな丸文字がびっしりと書き連ねてあった。
 
いかなる状況であなたからの手紙を読んでいるのかというと、実のところ、激しい火の手が迫っていて、どうやら助かりそうにもない。ヘッドホンをして音楽を聴いていたせいで、周囲が騒がしくなっていることに気が付かなかった。ここは高層マンションの中層階で、階下で発生した火災は上へと延焼を続けているらしい。玄関を扉を少し開けて廊下の左右を見渡してみると、ほとんどの扉は無造作に開かれっぱなしで、随分前に住民の多くは逃げおおせたのだろうと思った。炎に包まれるまでに何をすべきか考えてみたところで、とりたてて良い考えは思いつかなかった。仕方がないので、読み始めていた手紙の続きを読むことにした。
 
「というのも、先日、近所の書店で、英訳された『ノルウェイの森』が売っていたのでぱらぱらと捲ってみると、こう書いてありました――"You can't miss it. There's a big sign: 'Kobayashi Bookshop'. Come at noon. I'll have lunch ready." 書店を営む実家に緑がワタナベを誘うシーンです。そのあとワタナベは彼女の家に行って、手の込んだ昼食をご馳走されて、火事を眺めながらキスをします。そんなことはどうでもよくて、そう、"Kobayashi Bookshop"の"sign"ってなんだか変でしょう、まるで「小林書店はこちらです」って道案内の標識が立っているみたいで。それで原著にあたってみることにしました。幸運なことに、こちらの文学部の日本文学研究のちいさな図書室にはちゃんと原著が収められていて、見てみると、『いやでも分かるわよ。小林書店っていう大きな看板が出てるから。十二時くらいに来てくれる? ごはん用意してるから』と書いてあります。それで、自分が英語で『看板』と言いたいときに、適切な言葉が見つからないことを思い出しました。あるお店、例えば欧州初出店のラーメン屋を探してロンドンの街を歩いていて、『あ、お店の看板が見えたよ』と言いたいとき、signでは違うような気がするのです。もっとも、外国語を話していて言葉が見つからないことなんて、決して珍しいことではないのですが。ともあれ、signっていかにも標識のようで、看板に対してあてる訳語として違和感がありませんか。標識と看板は似て非なるものではないでしょうか。billboardは確かにある種の看板ではあれど、ラーメン屋の看板って、ロードサイドショップのばかでかいbillboardとは違うでしょう。」
 
冗長で呑気な手紙で、とても死に際に読むのに相応しいとは思えなかった。それでもあなたは数少ない心の許せる相手の一人だったし、あなたからの手紙を読んで死ぬのも悪くはないなと思った。
 
「英語と日本語の差異みたいな、言うまでもないことをわざわざとりあげて話をしているわけではありません。もしかしたら英語のネイティヴ・スピーカーにとってラーメン屋の看板をsignと呼ぶことにまったく違和感はないのかもしれないし、そうだとしても一向に構いません。問題にしたいのは、看板と標識の違いです。看板というのは『みられるもの』であって、標識というのは『しるされたもの』なのです。つまり、看板というのは見られることに重点が置かれていて、標識というのは何かが記されていることが強調されているのです。なにかそこに言葉があるとき、それはいつ言葉たりえるのでしょうか。それが記されたときなのか、見られたときなのか? 標識という言葉は、そしてもっといえば恐らくsignという言葉も、記しただけで言葉の役割は果たし終えたとでも言いたげな、ある種楽観的な物言いだと思います。けれども看板というのは、見られるまでは看板たりえない。言葉のコミュニケーティヴな側面をストイックにすくいとった言い方ですね。言葉を書く人はどの瞬間に言葉を欠き終えたことになるのでしょう。自分はどちらかというと、言葉は読まれたときに書き終えられたように思うので、読まれない文章は不完全だと主張したいです。これはある種の信条に過ぎないのですが。だから欧州の郵便事情を自分は憂慮しています。もしこの手紙を書いてあなたのところにまで届かなかったとしたら、せっかく書いた文章はほとんど役割を果たさないでしょう。それではお元気で」
 
部屋の空気は少しばかり煙臭くなってきていた。あまり時間がなさそうなので手短に返事を書くことにしたい。幸い切手は部屋の中にあるので、封筒にあなたの住所を記入して窓の外へ投げれば、親切な人があなたのもとへ届けてくれるかもしれない。
 
「前略、モンゴメリ赤毛のアンの第4巻の『アンの幸福』を読んだことがありますか? アンとその婚約者ギルバートの遠距離恋愛について書かれた物語で、ふたりは頻繁に手紙を交わします。そのときアンは、ギルバートへの最初の手紙で、"I have a scratchy pen and I can't write love-letters with a scratchy pen . . . or a sharp pen . . . or a stub pen. So you'll only get that kind of letter from me when I have exactly the right kind of pen."と書いて送ります。アンはちゃんとしたペンがないとラブレターを書かないのだそうです。他方で、エドガー・A・ポーは、『ブラックウッド風の記事の書き方』という本において、ブラックウッド氏に次のように言わせています――"I assume upon myself to say, that no individual, of however great genius, ever wrote with a good pen--understand me--a good article"と。良い文章を書くためには、良いペンを使ってはならない。これはさしあたり、自嘲をこめた皮肉であると理解して問題ないでしょう。」
 
気温が上がってきているし、ガスを吸ったのか頭が回らなくなってきた。
 
「つまり両者とも、読まれるということに対してとても敏感なのです。書かれるだけならば如何なるペンによって書かれようとも問題ないわけです。ペンにこだわるのは読み手を想定してこそです。自分はモンゴメリにもポーにも概ね同意します。つまりあなたの信条に概ね賛成します。だから、今自分がしかじかの理由であまり綺麗な字、ひいては綺麗な文章を書く余裕がないことを、先に謝っておきたい。それも、この手紙があなたによって『みられる』ことがなければどうでもいいことなのですが。草々」
ここまで書いてペンを置き、急いで封筒に宛名を書いて切手を貼り、赤ペンで「AIRMAIL」と書き込んで、窓の外へと投擲した。