崖に寝る

1.

 車は山道を走っていた。運転するのは見知らぬ男で、私は助手席に座っていた。旅をしているのである。男は運転席の窓を開けていて、車のスピードに合わせてそこから風が強く吹き込んできていた。助手席側の窓は閉めていたが、私の髪の毛は一貫して激しくはためいていた。
 ラジオが受信する周波数を見失って以降、エンジンの低い響きと車体が風を切る音しか聞こえなかった。私も男もステレオをいじって気の利く音楽をかけるようなことはしなかった。男は的確にハンドルをさばいてカーブの多い道に車を走らせた。道のところどころは崖に面しており、操作を誤ると危険だったが、男は臆することなかった。私は一定の加速度を継続的に感覚していた。
 不意に、左手に道路に迫る崖を残したまま、景色は右手に向かって大きく開けた。道路は相変わらず高い標高を維持して走っていたが、右方の眼下にくすんだ風合いの青っぽい海が見えるようになった。左手には暮れかかる空に向かって崖がそびえ、右手には底のしれぬ海に向かって崖が落ち込んでいる。崖にへばりつく薄い道路を男と私は走っているのである。
 日は暮れかけているのに赤みを帯びず、空は青から黒へと直線的に暗さだけを変えているようだった。
「そろそろ今夜寝る場所を見つける必要がある」
 と私は男に向かって言った。
「間もなくその場所に出るので心配は要らない。見えてきた」
 左手は相変わらず切り立った崖だったが、右側の景色の崖が異様に変貌していた。どうやら男は、この異様な景色の場所を寝床として選ぶらしかった。
「おかしな景色だろう。すべて人工的に造成されたんだ。一昔前に、金を余らせた石油会社が、日本中の特徴的な崖を一か所に再現しようと言って。馬鹿げた思い付きだが、金持ちの余興だ。関係の深かったゼネコンに外注しで、いくつもの崖をコピーして、海岸を見渡す限り奇妙な地形で埋め尽くそうとした。しかし――」
「埋め尽くされてはいない」
 と私は右手の景色を見渡しながら言葉を引き取った。彼は路肩の辛うじて広い場所を選んで車を停めた。
「その通り。途中で資金難に陥ったんだ。予想されていたよりもこのあたりの石質が脆く、それを補強する所から始めなければならなかった。それにご覧のとおり、ここらには一本の細い道路しか走っていない。建築物資を運び込むのも効率が悪くコストがかかった。それに建設が始まって間もなく、石油は供給過剰で暴落し始めた。石油会社は資産を早急に引き上げる必要があって、ここは当然真っ先に切り捨てられた」
 私たちは一抱えの荷物とともに車を降りた。男は「万に一つも必要性はなさそうだが、念のため」と言いながら車のドアをロックした。
 私はその異様な光景を見下ろした。なるほど見渡す限りの人工地形というわけではない。しかし一部分であれ、この巨大な崖が人造であることは俄かに信じがたかった。不気味さを感じて私は身震いした。建設のために死者は出なかったのかと私が訊くと、そんなに昔の話ではないと彼は否定した。労働者の安全管理が、既にある程度うまく機能するようになってからの話だ、と。
「そこの崖の上に窪みがあるだろう、そこで寝よう。テントを立てるほどの場所はないが、気候がいいので寝袋だけで問題ないだろう。雨も降らないそうだ」
 と男は言った。突飛な提案だったが私は従順だった。我々はその窪みに寝袋をふたつ並べ、その中にそれぞれ収まった。男が海側で、私が道路側だった。私は寝ころんだまま、男の顔越しに遠くの水平線を見た。まだいくらか光は残っていたので、空と海の境界は識別可能だった。しかし間もなく十分な光はなくなり、両者は一体に見えるようになるだろう。
 もし何かのはずみで海に落ちるとしたら男だけだ、と私は思った。私は寝返りしたとしても道路にはみ出るか男に阻まれるかのどちらかだ。道路にはみ出たとしても車に轢かれる可能性は低い。さっきから往来は全くなかった。しかし男はひとたび海側に寝返りでも打とうものなら間違いなく滑落し、崖に身を打ち付けながら落下し、激しく海面を打って、恐らく誰にも発見されないまま海洋生物の養分に成りはてる。
「車で眠った方が安全ではないか」
 と私は仰向けになって宙に視線を泳がせながら提案した。かなり暗くなったが視界の中に星は無かった。
「落ちることを心配しているのならば、私は寝相がいいので問題ない。それにこんな場所まで来たのに狭苦しい車の中で寝るより、ぜひ景色に身を預けたいじゃないか」
 海側から淡々とした返事が返ってきた。
「こんないびつな景色に?」私は眉をひそめた。
「そうやっていちいち主観的な感情を募らしていては旅は楽しめない。面白いじゃないか、気の遠くなるような時間をかけてエネルギーが蓄積された化石燃料の所有権を押さえて、汚染した地球の大気に対して何の対価も支払わないままぼろ儲けした連中が、その金を使ってやはり気の遠くなろうような時間をかけて造成された大地の芸術を複製しようと試み、しかし結局その技術もなければ金も足りずに諦めてしまうんだ」
「その高慢さ、思い上がりが不愉快だ。それに、そんな茶番を演じたからには、きちんと地形を元に戻してから去って欲しい。あまりに不自然が過ぎる」と私は反論した。
「あなたは随分確固たる価値判断の基準を持っている」
「健全な価値基準を」私はむっとして付け加えた。
「あるいはそうかもしれないが、果たしてそうかな。ともあれ、例えば英国の、大英博物館でも何でもいいが、古い博物館に行ったとする。そうするとそこには美しい装飾の施された巨大な岩の塊や大木のモニュメントが所狭しと並んでいる。当然ながらそれらは、大英帝国の華やかなりし頃に分捕ってきた、エジプトやシリア、ギリシアやローマの歴史が生み出した比類なき資産だ。その資産ストックは今でも英国の旅行収支の黒字化に大きく貢献している。あなたはその暴虐に憤るかも知れない」
 私はイエスともノーとも言わなかった。
「しかし私はそういう言うなれば暴虐な博物館を見てこう思う、この博物館は何かを展示しているつもりでいるのかも知れないが、もはや博物館の営みそのものが歴史の物語を孕んだ見世物だってね。かつて栄華を極めた文化が衰退したころ、力にものを言わせてその資産を略奪して、そこから毎年毎年儲け続ける。とんだ優良資産だ。だが、資産が儲けのフローを生まなくなる時代くらい簡単にやってくるだろう。そうしたらあの優良資産は一体どこに流れていくだろう、だなんて考えてみるのは楽しいものだ。そういった過程の一場面を象徴的に見せているのがあの威張り散らした博物館だ、なんて愉快な見世物なんだ、と」
「それと同じように、ここの景色も愉快である、と」私は言った。
「その通り。だからこの愉快極まる景色に身をゆだねて眠ろうじゃないか」
「あなたが崖から落ちたとしてもあなたにとっては愉快なようだ」
 男は軽く笑った。
「ご明察、まったくもってその通り。もし眠った後に落っこちるなら、絶対に死ぬ前の瞬間に目を覚ましたいと心から願う。命綱もなしに崖から落ちるなんて後にも先にもないことだろうから。あなたはそうは願わないかもしれないが」
 それからひとつ欠伸をして、もう眠った方がいい、と男は言った。おやすみなさい、と私は言った。眼前に広がる夜空には相変わらず月も星もなかった。隙間なく星が輝くきらびやかな夜空の下ならば男の言ったことに同意しやすいかもしれない、と私は思った。しかし闇は無表情に私と男を奇妙な景色の中に閉じ込めていた。私が彼を突き落としたら彼はもっと愉快がるだろうか? しかしそんなことを実行するには私の価値判断の基準は健全が過ぎるようだった。

2.

 眠りは浅く、途中でうっすらと目を開けると眼前にひらける空は黒々としていた。
 ほとんど光は無かったが、左手の寝袋の中で眠っているはずの男が半身を起こしていることに気が付いた。黒い男の影と黒い空の背景のあいだの薄い輪郭を辛うじて私は目にしていた。男は自分の寝袋のファスナーを完全に開けて、その上に胡坐をかき、私に向き直った。私を見下ろしている。その瞬間、これは明晰夢だ、と私は悟った。そして非常に愉快な気分になった。
 私は注意深く夢の展開を見守った。 風は凪いでおり、男の息が顔にかかった。気温は人肌のように温く、全身を包む寝袋の中はぼうっと心地よく熱かった。岩肌の上に直接寝袋を置いているはずなのに、凹凸が背中に刺さることもなく、体重はバランスよくなめらかに分散して支えられていた。耳を澄ませると、男と私の呼吸音の他に、崖下はるか遠くの海が満ち引きする静かな音が聞き取れた。その音を感知したあとで、空気に少しばかり潮の匂いが混じっていることに気が付いた。
 男は胡坐をほどいて、私の横にひざまずいた。そして私に手を伸ばし、私の寝袋の、首元とふくらはぎ辺りを覆っている辺りをそれぞれの手で握りしめた。男は息を止めて、一気に私を持ち上げた。そしてその勢いのまま180度回転し、私を海に向かって放り投げた。
 ああやっぱり! 寝袋に包まれた私の身体は一旦浮上したものの、すぐに放物線にしたがって落下を始めた。 背筋がひやりとする感覚とともに身体は重力から解放された。崖の陰に入るといよいよ暗く、目には何も見えない。耳の横を切る風の音だけが段々と大きくなり、潮騒の音はあっけなく掻き消えた。温い空気も絶え間なく速さを増しながら頬を煽るので冷たい。近づいているはずの海の匂いはどうしてか感覚できない。
 ふと足先が何かに触れて、高速で落下する全身に衝撃が走った。足先が触れたのは岸壁の凸になった部分に違いなかった。予想できたことだが、岸壁は垂直に海に下りているのではなく、ところどころ張り出したり凹んだりしているのだ。間もなくして、足先のみならず全身を岸壁に打ち付けた。全身に激痛が走り、私は目を覚ました。私は元通り、崖の上で寝袋に収まって横たわっていた。夢を見る前よりも汗ばんでいた。
 再び薄く目を開けると、やはり再び、予定調和的に男は半身を起こしていた。そして先ほどと同じように、男は自分の寝袋のファスナーを完全に開けて、私を見下ろしながら、自分の寝袋の上に胡坐をかいていた。私は夜空に微かに光が差し始めていることに気が付いた。男の影は僅かながら比較的明瞭に見えるようになっていた。
 男は胡坐をかいたまま私に手を伸ばし、首元から私の寝袋のファスナーを下ろしていった。寝袋の中に滞留していた体温で熱せられた空気から皮膚は徐々に解放されていった。汗ばんでいた首元には人肌の空気すらも涼やかに感ぜられた。首、肩、胸、腕、腹、臀部、脚、くるぶし、つま先、と緩やかに寝袋は取り払われていった。額に張り付いていた髪の毛がふくんでいた汗も乾いて、一部の髪の毛は耳の方へぱらりと落ちてきた。
 男は身を乗り出して私の肩を揺さぶった。
「眠ったまま落としても良いかと思ったが、やはり起きていた方が愉快だろう。目を覚ました方がいい」
 男の言葉に応えようかどうか、私は迷った。
「それに、眠っている人間を抱えるのは、起きている人間を抱えるよりずっと厄介だ。腰をやられる」
 狸寝入りを続けても良かったが、私は好奇心から自ら半身を起こした。すると寝袋の生地を離れた背中にもまた空気が触れた。私は遂に身震いした。汗が急速に身体を冷やしていた。
「よし、起きたな」
 男は満足げに言った。空は青白く変色を始め、私は微笑をたたえた男の表情を見て取ることができた。
「膝を曲げてくれ、そこに腕を通すことができるように」
 男の指示に従って私は脚をすくめた。男は胡坐をほどいてひざまずき、私の膝の裏と肩の下に腕を通し、立ち上がった。遂に全身が寝袋を離れて、全身の体表から気化熱が奪われ始めた。私の身体は不随意にがたがた震えた。
「恐れる必要はない」
 と男は私の顔を見下ろして言った。恐れているわけではない、と私は男を見上げて言い返した。男はあくまで楽しげに、薄い唇の端で微笑んでいた。
 男は崖の端に立って、海の方向を向いて、再び私の顔を見下ろし、「それでは」という一言と同時に私を宙に放った。淡く光の散乱する空に身体が接近していったのは束の間で、すぐに身体は落下を始めた。落下のあいだ空を仰ぎ続けていると、空の色の変化を感知できた気がした。空気が皮膚を切り、体温はますます奪われた。耳元の風はますますクリアに耳朶を打った。このまま風に溶けてしまうことができたらこの上なく快楽的だろう、そう思った瞬間に、身体は激しく打ち付けられた。崖ではなく海面に私は到達していた。飛沫に視界がかすみ、暗い色をした海水に角膜が覆われた。不思議なことに身体は海面に浮かび上がることなく、錨のように海中をまっすぐ沈んでいった。すぐに再び視界は暗黒に覆われ、海水温はますます下がり、手足がしびれて感覚を喪失した。
 冷たい海水が私をなめらかな海底に横たえたとき、私は目を覚ました。私は相変わらず崖の上に横たわっており、夜はまさしく明けようとしていた。ひどく寒くて震えが止まらなかった。ふと見ると自分の寝袋のファスナーは完全に開放され、首といい脚といい夜明け前のきりりと冷えた空気に晒されているのだった。私は胸の奥深くまでその空気を吸い込んで、ゆっくりと吐き出した。長い夢のあとの倦怠感が私の身体に馬乗りしていた。

3.

 私は強ばった半身を起こした。それから震える体に寝袋を掻きよせた。ふと海に目をやると、水平線の一点から強い光が放出されていた。曙光である。
 私の隣に男の姿はなかった。
 それに気が付いた途端、私は明晰に夢想した。男が高らかな笑い声とともに空を切る様子を。彼のことだから真夜中ではなく、空の白み始めた頃に落ちたのだろう。落下しながら、空と崖の境目を仰げるように。彼は恐らく、長すぎる夜に退屈したのである。可哀想に、私と違って夢を見ることができないのだ。それで彼は寝袋のファスナーをみずから下ろして、冷たい夜気に体を曝しながら、無重力の愉悦を堪能したのだ。
 私は困惑した。というのも、車のキーを男が持っていたからだ。念のため、と言って彼は車をロックした。念のため? それはつまり、万が一彼が崖から落ちることを選んだとき、私の行き場を奪えるように? 私はここがどこなのか全く知らなかった。ただ長いあいだ男の車に乗って来ただけだった。人の居住地域から大きく隔たっていることは確かだった。歩いてどこかに辿りつくことは不可能に思われた。
 今や崖下は私を強烈に誘惑していた。 夢の中で二度も落下したせいで、その悦楽の味を覚えてしまった。あの男め、と私は毒づいた。毒づきながら、崖の縁に接近した。その淵を手指で掴み、身を乗り出した。改めて、目の眩むような高所である。いよいよ海面は朝日を受けて燃え立っていた。燃え立つ海面から煙が上がるように、淡い霧が浮かんでいた。状況は夢よりも輪をかけて蠱惑的であった。
 誘惑されながらも、私は迷っていた。 何せ私の価値基準は善良が過ぎるのである。海の誘惑は明らかに悪魔の囁きであった。善良なる規範に従って私はこれを振り切り、先の見えない山道を彷徨って、街に戻るよう努めなければならなかった。それが真っ当な振る舞いであった。
 それでも私はますます魅了され、崖下に身を乗り出し、 灼けつく海面を眺めた。強い光は私の目を射って、視界にいくつもの緑色の残像を貼りつけた。私は重力からの解放と空気を切る爽快さを思った。あと僅かに体の重心をずらすだけで、それは本当に体験できるのである。しかも、そうしたらば、もう二度と街に戻らずとも良い。
 不意に、音もなく、誰かが後ろから私の背中を押した。それによって私の身体の重心は僅かにずれて、私は水泳選手がプールに静かに入水するように滑らかに、ふわりと宙に浮いた。

 全身に恍惚が駆けめぐるなかで、私は遠くにエンジン音を聞いたかも知れない。 

 

(了)