でたらめでよじれた旋律には、他ならぬ私自身の記憶が生臭く染み付いていた

1.

 2015年5月19日の出来事である。バラク・オバマが初めてツイッターに投稿し、エリザベス老女王がアンネフランクの収容跡地を訪問し、橋本元知事が大阪都構想で敗れた頃らしい。しかし世界の動向も日本の動向も知る由もなかった。インターネットも電話番号も使えず、テレビも新聞も見当たらない場所だった。
 私は黒パンにレバーペーストのようなものを伸ばし、黄パプリカとチェダーチーズを乗せて電子レンジで温めたものを食べ終えたところだった。朝食にしてはいささか匂いのきつすぎるメニューだったが、他に手持ちの食材がなかった。コーヒーを飲もうとしたがドリッパーもフィルターもなかった。私はコーヒーの粉を直接マグカップに掬い入れ、ポットにお湯を沸かして注いだ。イギリスのチチェスターという田舎町の老夫婦に教わった飲み方である。これがイングランド流だ、と白くて硬い髭を生やした温和な老人は言っていた。
 粉入りコーヒーを片手に、広々とした談話室の籐の椅子に膝を抱えて座っていると、旅人のくせに、この土地を去ることを惜しむ心持になるのだった。酷寒の地に佇むこの宿屋はフリーザー・ホステルというふざけた名前を冠していたが、その茶目っ気は家具や調度品の選び方にも表れていて、他の場所にあってはガラクタでしかありえない物たちが散らかるようにして生気を得ているのだった。中でも、壁に立てかけてある、グランドピアノの弦が張られた剥きだしの板が気に入っていた。板や留め金はところどころ歪み、何本かの弦は切れたり絡まったりして発声の能力を失していた。床に胡坐をかいて、錆びかけた弦を爪弾きでたらめな音を出すと、その調べは忘れられたガラクタそれぞれの記憶を混然と代弁しているようだった。壁や棚に引っかけられた物言わぬ網も浮きも錨も、かつては屈強な漁師たちと共に轟々と荒れる海を渡ったに違いなかった。
 玄関の扉が開き、ホステルのオーナーが入ってきて、ひどい天気だと言った。5月だというのに雪が強風に舞っていた。周囲を散策できるだろうかと訊ねると、無理だろうが、隣町のオラフスヴィクには小さな博物館があるから行ってみればどうかと彼は提案した。ほんの5kmくらいしか離れていないので、車で行けばすぐだろう。私はリュックサックの中からありったけの衣服を取り出して身に付けた。リュックサックが空っぽになると、その中に筆記用具と本と地図と水着と傘を放り込んだ。友人に送る予定の絵葉書を手袋をした右手に握り、意を決して私は荒天の中に踏み出した。
 そこは人口120人の漁村だった。その前日、ドイツ人の青年が車に乗せてくれたとき、宿泊している村について話をすると、じゃあ今その村の人口は121人じゃないかと彼は冗談を言った。正確には、と私は笑いながら付け加えた。2人のアメリカ人と1人のフランス人も泊まっているから、村の人口は124人。
  人口124人の漁村のホステルを出て、小さな港の方に少し歩くと、村唯一のスーパーマーケットの前に村唯一の郵便ポストがあるのだった。こんな場所でもポストは赤い。かじかむ手で、日本列島に宛てた手紙を何通か投函した。投函する瞬間にも葉書が風に攫われてしまいそうだった。
 芯まで凍える前に車に乗せてくれる人を見つけなければならなかった。この地域一帯の交通はすこぶるシンプルで、西に張り出した半島の周囲にぐるりと幹線道路が巡らせてあり、すべての自動車はその道路を時計回りに走っているか反時計回りに走っているかのどちらかだった。私は時計回りに走っている車を見つけさえすればよかった。ドライバーの機嫌が余程悪くない限り、殆ど50%の確率でヒッチハイクは成功した。
「すみません、オラフスヴィクまで行きたいのですが」
  おんぼろの軽トラのドライバーに、私は地図を見せながら声をかけた。朴訥と喋る老人で、車内からは生魚の匂いがした。漁師だ。彼は地図を一瞥して、乗りなさい、と言った。後部座席に乗ると生魚の匂いはさらに強まった。バックミラーに小さな男の子の写真が挟んであった。まるで証明写真のように、あどけない男の子が真正面を向いて写っていた。お孫さんですか、とはとても聞けなかった。 

2.

 雨風はいよいよ吹き荒れた。フロントガラスに雨粒が衝突して大きな放射線状の紋様を描いていた。右手に小さな黒い岩の斜面が現れて、そこには白糸のような滝が流れていたが、あまりの強風に細い滝は途中で吹き飛ばされて空中に消失していた。対向車の少ない荒れ模様の道路を突っ切って、10分足らずで私たちはオラフスヴィクに到着した。彼は町の観光案内所の前で私を降ろした。礼を言うと彼は黙ったまま軽トラを発進させた。私は急いで案内所の中に入った。部屋の中の暖気に寒さで強ばっていた筋肉が一気に弛緩した。
 観光案内所といっても、小さくて小綺麗な事務室のような場所だった。白い長机やホワイトボードに多くのパンフレットや地図が陳列されていた。別の白い長机の周りで何人かの若い男女が座って歓談していた。学校の休み時間のような風景だが、彼らが観光案内所のスタッフに違いなかった。私はオラフスヴィクの無料観光マップを手に取った。教会と小さな博物館を訪ねる他に観光客がやることといえばバードウォッチングくらいのようだった。私は彼らのうちの一人に、教会と博物館の他に行くべき場所はあるかと尋ねた。今日は天気が悪いので、と彼は言葉を濁した。それに今日は教会の中には入れないし、博物館は休館日なんです、と彼は申し訳なさそうに続けた。教会の写真を撮るか、ホステルでゆっくりするのがいいと思います。もしくは、夕方にもし天候が回復すれば、町の小学校のサッカーの試合がある予定です。それを観戦するのも良いかもしれません。
 私はなおも地図を見つめて、市民プールがあることに気づいた。この地熱の島国には、温泉と温水プールが多く、利用料金も安いと聞いていた。市民プールは使えるかと私は尋ねた。使えますけど、観光客向けじゃあありません。そこに温水プールはあるかと私は尋ねた。屋内にも屋外にも温水プールはあります、と彼は答えた。私は礼を言ってきびすを返した。彼はすぐに歓談の輪の中に戻っていった。
 町自体がごく小さいので市民プールまでの距離もごく短かったが、傘も差せないほどの強風だった。私は重心を低く保ちながら歩を進めた。途中、観光地図が手を離れ、メジャーリーガーの豪速球のごとく吹き飛び、近くのフェンスに激突した。急いでそれを回収するとしわくちゃに傷んでしまっていたが、判読可能だった。市民プールらしき建物に到着したが出入り口が見つからなかった。幸運にも親子連れが車に乗ろうとしていたところだったので、入り口の場所を尋ねた。母親は親切に出入り口を指し示してくれた。私は言い訳がましく言った。天気が悪いので、他にやることがなくって。
 私は建物に入り、 料金を支払い、水着に着替えた。ロンドンの量販店で購入したいかにも安っぽい水着だった。シャワーを浴びていると、小さな子供たちがやってきて、母親にごしごしと体を洗われていた。日本のプールにも山ほど注意書きがあるが、このシャワールームにも体の洗い方を事細かに指示する張り紙がいくつも貼ってあった。体は水着を脱いで洗うこと。それは、と私は思った。確かに足下で駆け回る女の子たちは母親に水着を脱がされていた。私は白々しい気分で水着を脱がないまま、それでも念入りに体を洗った。その母親も咎めるような顔はしなかった。

3.

 ざらりとした床を踏んで私はプールサイドを歩いた。うっすらと塩素の匂いがする生暖かい空気に体表が包まれた。腕を組んでプールを監視していた痩せた男性が、申し訳ないんだけど、と私に話しかけた。申し訳ないだとか残念ながらみたいな言葉を今日だけで一体幾度聞いただろうかと私は思った。申し訳ないんだけど、一番大きなプールは水泳教室をやっているので使えない。脇の小さな温水プールと、それから――彼は言いよどんで窓の外を見やった。それから、屋外にも温水プールがあるので、良かったら。苦笑いして彼は言った。私も窓の外を見た。小さな女の子たちが高い声を上げて走り回っていた。あんなに小さな体が凍り付いてしまわないのが不思議だった。
 分かりました、じゃああちらの小さいプールを使います、と私は言った。といっても、小さいプールに先客がいないわけではなかった。恐らく知的障碍のある男の子たちが10人ほど水遊びをしていた。何人かの男の子はでっぷりと太っており、何人かの男の子は少年らしいしなやかな体つきをしていた。若くて大柄で引き締まった体をした男性が、プールの浅くなっているところに悠々と浸かって、男の子たちに話しかけたり水遊びの相手をしたりしていた。 入っていいですか、と私はその男性と男の子たちに向かって話しかけたが、英語を解するのは恐らくその男性だけだった。もちろん、と彼は言った。私はプールに入って腰を下ろした。プールの床に座っても首が出るほど浅いプールだった。
 男の子のうち何人かは私に興味を示し、私の知らない言葉で色々なことを話しかけてきた。他の多くの男の子たちは私に無関心だった。話しかけてくる男の子に向かって、 私は首を傾げたり微笑みかけたりした。私は自分が彼らを少し恐れていることを認めなければいけなかった。10人もの男の子とプールに入ったことはなかったし、10人もの知的障碍を持つ男の子たちに一度に会ったことがなかった。よく考えれば、外国人の知的障碍者にまともに相対したこともなかった。切断された社会に生きてきたのだ、と私は歯噛みした。私はかつて年下の子どもたちにやってみせたように、両手の指を組み合わせて犬の形を作って動かした。反応を注意深く見たつもりだったが、彼らにとってそれが面白いのかどうかよく分からなかった。
 そのまま緩慢に時間は流れ、その狭いプールに浸かるのにも飽きてきた。大きなプールではまだ水泳教室が続いているようだった。私は小さなプールの男の子たちに手を振って、プールサイドを歩き、外のプールに行きたいのですが、 と監視員に行った。寒いわよ、と競泳水着に身を包んだ監視員は言った。ええ、でも、温水でしょう、と私は言った。屋外では小さな女の子たちが相変わらずプールを出たり入ったりしていた。扉の横のグレーのボタンを押すと自動でドアが開閉する、と彼女は説明した。強風がしょっちゅう吹く土地なので、子どもたちが素手で扉を開閉するのは危険なのだ。
 グレーのボタンを押すとなめらかにガラスの扉が開き、濡れた体に冷たい海風とみぞれのような雨が吹き付けた。私は両腕を体に巻き付けるようにしてプールに浸かった。 温い水が体表の温度を多少保護したが、顔面と頭皮から明らかに熱が奪われ続けていた。ここもすぐに足の着くような浅くて狭いプールだったが、私は体を温めるために泳ぎ続けた。遊んでいた女の子たちはやがて去っていった。風は時おり柔らかくなり、時おり目も開けられないほど強く吹いた。冷たい雨も降ったり止んだりした。
 私はとにかく体を動かし続けた。一体自分は何をやっているのだろうと訝りながら。ここは、世界地図の隅に追いやられた極地の島国である。長い冬を終えようとしている極地の島国である。火山活動によって海底からせりあがって生まれたこの島の海岸線は長い。島の海岸線が西に突き出した最果ての町のスイミング・プールで寒風に煽られながら足掻いている。私がここにいることは殆ど誰も知らない。私のことを知っている人は私がここにいることを知らないし、私がここにいることを知っている人は私のことを知らない。私が今「私はここにいる」と私の言語で叫んだところで、周囲何十キロにも渡って私の言葉を解する者はいないだろう。私が今"Now I exist here"と便宜的な世界共通語で叫んだところで、周囲数メートルに存在する誰も関心を示さないだろう。私は孤独の愉悦に浸った。温水と冷気に文字通り生身をさらす私は赤子のように非力であり、完全に何者でもなかった。それはすべてのコンテクストからの解放だった。ふと、今朝投函した絵葉書のことを思った。表意文字で自分の名前を記したあの紙切れが海を渡って温暖な島国に到達することはとてつもなく奇妙だった。大丈夫だ、と私は自分に言い聞かせた。あれが到達するまでにはかなりの時間を要するはずで、あの紙切れがこの孤独を妨害するわけではないだろう。

4.

  やがて体力が尽きた。風雨が弱まる隙を見定めて温い水から体を出すと、冷気が肌を突き刺した。私は自動ドアまで駆けた。もしかしたらこのガラスの扉は外からは開かず、生身の肉体が力尽きるまで泳ぎ続けなければいけないのではないかと不安を感じた。しかし何のことはなかった、グレーのボタンを押すと扉は開き、私はガラスの壁の庇護のもとで体温を取り戻し始めた。監視員の何人かが私に笑いかけ、寒かったでしょう、と言った。寒かったです、とても、と私は答えた。
  大きなプールで水泳教室はまだ続いていたが、10人の男の子たちは去っており、小さいプールは閑散としていた。彼らの顔を思い出そうとしたが無理だった。誰一人名前も教えてくれなかった。私たちの間のコミュニケーションを阻んだのは、果たして言語の相違だけだったろうか? シャワールームはどちらですっけ、と私は監視員のひとりに尋ねた。屋内プールの中にいくつもある扉がそれぞれどこに通じているのか混乱していた。あちらだよ、と監視員が指差した扉に私はよろよろと吸い込まれた。
  シャワーから吹き出す温水の温度を皮膚に染み込ませるようにして、わたしは随分長い間シャワーを浴びた。皮膚はふやけて波打ち、爪は白っぽく変色し、髪の毛は塩素で軋んでいた。水膜の向こうに、体は水着を脱いで洗うこと、という注意書きが霞んで見えた。この国ではどのプールにもこれと同じ注意書きがあるのだろうかと私は訝った。もしこのシャワールームの中に、幼い乳児のような女の子から腰の曲がった老婆まで、高校の保健体育の教科書みたいに裸体が並んでいたらさぞかし滑稽だろうと思った。体は水着を脱いで洗うこと。私はシャワーを止めて、水着の上から水滴を拭った。
  ようやく服を着込み、鏡の前で髪の毛にドライヤーをあてると、髪はますます光沢を失い、青白い肌は温風を受けて痛々しく乾燥した。やつれた自分の姿を睨みながら、私のアイデンティティと私の風貌が殆ど連結されていないこの土地では、私は自分の風貌からも解放されているのではないかと思った。それでは体にずっしりとのしかかる疲労は? どうやら疲労やその他の感覚は相変わらず私に帰属し続けるようだった。難しいな、と私は思った。しかも、この後に及んで、自分の髪の毛には艶やかであって欲しかったし、自分の皮膚には滑らかであって欲しかった。ますます難しいな、と私は思った。私は何度か髪の毛を編んだり戻したりして、結局ヘアゴムで乱雑に縛った。これからまた荒天の中を歩かなければならないので、髪が吹き乱れて顔を打たないようにしなければならなかった。
  すぐさま車を拾って帰りたかったが、屋外で車を待てるような天気ではなかった。私はこの町で恐らく唯一のレストランに駆け込んだ。店内は閑散としていた。お好きな席へどうぞ。二階に上がると、数人の店員がソファに寝転んで談笑していた。私がやってきたのを見て彼女らが立ち上がろうとしたので、気にしないで、と私は言った。一階の席を使いますから。
  私はホットチョコレートを注文して雨が止むのを待った。粘つくような甘さが喉を伝った。あと何日この僻地にいるんだっけ、と私は考えようとした。3日? 4日? 飛行機が発つのはいつだったっけ? 今日は何月何日だっけ? 手袋をした手で本をめくるようなもどかしさで思考が停滞していた。努力してゆっくり飲んだが、マグカップはすぐ空になった。私が空模様を伺っている間に、レンタカーで観光しているに違いないグループが何組か、入ってきては食事をとり出て行った。私は地図を眺めたりノートに落書きしたりしながら時間を潰した。
  帰りの車を捕まえるまでには時間がかかった。残念ながら、と何人かのドライバーが繰り返した。1回目に断られる確率は50%、2回目も断られる確率は25%、3回目は12.5%、4回目は6.25%、と私は計算しながら寒さにたえた。ようやく乗せてくれたのは、ポーランド人の若い男性2人のおんぼろの軽自動車だった。私は後部座席に乗り込んだ。社交辞令を済ますと、男性2人は早口に聞こえるポーランド語で互いにずっと喋っていた。雨道だというのにものすごいスピードで、私は速度盤を盗み見て内心ひやついた。左手に見えてきた白い滝は今もなお途中で風に吹き飛ばされて消滅していた。そして間もなく今や懐かしい漁村を示す標識が見えてきた。彼らに十分速度を落とす時間があるよう、私は早めに言ったーーあの標識のところで、右に。
  フリーザーホステルの談話室は、壊れたピアノの破片だけでなく、電源につなげば使用可能な超旧式のエレクトーンも持っているのだった。奇遇にもそのエレクトーンは、日本の片田舎の祖父母のうちに眠っていた骨董品のようなエレクトーンと全く同じ型だった。元は叔母が使っていたエレクトーンで、私も子供のころよく弾いたものだった。こんな場所にまで古い記憶は追いかけてくるのだ、と私は困ったような気分になった。電源コードを繋いで電源を入れると、ブチッ、と大きな音が鳴った。ボードの上のプラスティックのつまみを弄って、ピアノの音色を作った。昔弾いた簡単な練習曲をスローテンポで弾いた。清い心。アラベスク。まず右手を、次いで左手をさらってからでなければ、両手でそれらしく弾けなかった。上手だね、とホステルのオーナーが入ってきて言った。いいえ、全然、と私は答えた。もう何年も弾いていないんです。スティリアンヌの女、バラード。それでも何度も弾き何度も聴いたおおよその音は覚えていて、不正確だが大体弾き通すことができた。胸の痛くなるような懐かしい音を鳴らしながら、エレクトーンは老婆のように私を諭しているのだった、結局お前はお前以上でも以下でもないのだ、と。つばめ、貴婦人の乗馬。25の練習曲を弾き終えると、私は思い浮かんだ曲を次々に弾いた。クラシック、Jポップ、ロック、フュージョン、ジャズの真似事。でたらめでよじれた旋律には、他ならぬ私自身の記憶が生臭く染み付いていた。正視せよ、お前はお前だ、とエレクトーンは遂に意地悪に嘲り始める。今くらい逃げさせてくれ、と私は顔をしかめるが、しかし私の指は拙く旋律を辿るのを止めない。今くらい全てを忘れさせてくれ、何者でもありたくないのだ、と私はなおも抵抗するが、海際の静かなホステルに、ピアノに似せられた電子音は静かに確実に浸透していく。ここに旅人がいる、何者かがいる、と声なき歌で語りかけている。
 
(了)