On Reversible Destiny

長かった夏季休暇は終盤を迎えていた。霧雨は降ったり止んだりを繰り返しながら、秋めいた冷気のヴェールを列島に段々と覆いかぶせていた。ふたつの季節の狭間で、海やプールに行く気にも読書や勉強に勤しむ気にもなれなかったが、何もしないと気が塞ぐのでバイトのシフトを多めに入れていた。大学近くのイタリアン・レストランで、つるつるとした四角いテーブルを布巾で拭い、テーブル・クロスの上に白い皿と白いナプキンを並べ、シルバーとグラスを曇りなく磨き上げるのが私の仕事だった。染み一つない完全なテーブル・セッティングを素早く成し遂げた時に押し寄せる穏やかな満足感には何だか中毒性があって、単調な仕事であるにも関わらず、かれこれ一年近く続けているのだった。

 私はその土曜日、夜半にまで及ぶバイトを終えて帰途についていた。傘に降り注いでもひとつも音を立てないような肌理の細かい雨が降って、環状線沿いの強い街灯の光を拡散させてぼうっと空気を照らし、バイトの制服の白いワイシャツと黒いスラックスは段々湿り気を帯びてきていた。私は次の日の朝食を何にしようか考えながら歩いていた。ホットケーキ・ミックスがあと一袋残っているはずだったが、或いは牛乳を切らしていたかもしれない。

 そのとき、目の前にイモリかヤモリのようなものが現れた。その爬虫類か両生類は、普通の寸法より一回りも二回りも大きかった。歩道を横切って走り去るのかと思いきや、それは私の目の前で通せんぼをして立ち止まった。

 それは最初、アスファルトと同じ黒色をしていた。しかし、私がじっと見つめているうちに極彩色に変化した。カメレオンだと私は気が付いた。

「月に秋はあるかねぇ」

 とカメレオンは言った。私はすっかり返事に困ってしまった。そのまま、私とカメレオンは並んで歩きだした。どうもそのカメレオンは私の自宅まで付いてくるつもりらしかった。

「何か召し上がりますか」

 私は尋ねた。

「ホットケーキが好きだなぁ」

 カメレオンは答えた。カメレオンの極彩色は、きれいに焼けた小麦とメープルシロップの色に変化した。最近巷ではパンケーキが流行っている。カメレオンにしては随分とミーハーだと思った。

「僕が好きなのはパンケーキじゃなくてホットケーキだ」

 カメレオンは反論した。

「聞いたところによると、パンケーキとホットケーキに明確な違いはないようですよ」

「全くもってそういう問題じゃないんだよ。全くもって」

 カメレオンは深く嘆息した。カメレオンにしては随分と度量が狭いと思った。

「まだ僕のことを何も知らないくせに、勝手にラベリングしないでくれないか」

 カメレオンはまた口うるさく言った。

 上京してこのかた数年間ひとり暮らしをしているアパートに到着した。カメレオンは短い脚を器用に使って、自力で五階の私の部屋まで階段を登り切った。

 部屋の扉を開けると、そこはカメレオンのごとき極彩色に溢れていた。今朝家を出たときは、白を基調とした大衆的ミニマリズムの模範のような部屋だったのに、壁も天井も様々な色に塗り分けられていた。床は九十九里浜のようなさらさらとした黒っぽい砂地に変わっていた。もともとの部屋は直方体の形をしていたのに、今は直線・平面と曲線・曲面の組み合わさった形をしていて、しかもかなり広くなっていた。

「これ、あなたがやったの?」

 私は極彩色に戻ったカメレオンに訊いた。

「さあね」

 カメレオンはお茶を濁した。

「脱いだ上着をしまう場所がないんだけど」

 私は文句を言った。クローゼットやストッカーがひとつも見当たらなくなっていたのだ。

「服なんか着るからだよ。僕は服は着ないね」

 仕方がないので天井から何本も吊り下がっていた金具のひとつに上着を引っ掛けた。

「あなたのことをカシオペイアと呼んでもいい?」

 私はさらに訊ねた。

「あんな喋れもしないカメと一緒にしないでくれよ」

 カメレオンは嫌そうに、大きな目をぐるりと回した。

「まあ、他に名前もないし、そう呼びたいならそうすればいい」

 意外と寛容なところもあるらしかったが、それでも本意ではなさそうなので、勝手に名前を付けるの は止すことにした。

「それじゃあ夜も遅いし、パンケーキを作りましょうか」

「ああ、昼だか夜だか知らんが、ホットケーキを頼むよ」

 私はホットケーキ・ミックスを取り出して、卵と牛乳を加えて掻き混ぜた。キッチンは部屋の中央に配置されていた。キッチン台はリング状に形づくられていて、その内側で料理をしていると、外側で黒っぽい砂浜をうろうろ歩き回るカメレオンと対面して会話に興じることができるのだった。砂の上で喋るカメレオンは、体表を黒っぽく変色させていた。

 熱したフライパンを濡れ布巾の上でジュッと言わせてから、とろりとした生地を流し込むと、生地は自然と円盤状の形に広がった。片面を焼く間にコンソメ・スープを用意しようと、まな板と包丁を取り出してキャベツを賽の目に切り揃えた。

「キャベツも好きだが、賽の目は好かんな」

 私の手元を見ながらカメレオンは言った。

「普段はキャベツをどうやって食べるんですか?」

 私はそう訊ねたが、内心、カメレオンは肉食のはずだが、植物性の食べ物をよく好むので意外だと思っていた。しかし他人の食物に関する嗜好について初対面で深入りするのは躊躇われた。

「直接齧ることも多いが、格式高い場面では千切って食べる」

「格式高い場面って、カメレオンの世界で?」

「僕がカメレオンだなんて誰が言った?」

 カメレオンはまた嫌そうな顔をした。しかし上から見ても下から見ても彼はカメレオンだった。

 そうこうしているうちに、ホットケーキが温かく香ばしい匂いを上げ始めた。

「そろそろ反転させた方がいい」

 カメレオンは言った。私がフライ返しで慎重に作業する様子を、彼は嬉しそうに眺めていた。数分後、円盤系のホットケーキは色よく焼き上がり、コンソメ・スープの賽の目キャベツには程よく火が通った。縄目の文様が付いたざらりとした器にそれらをよそった。カメレオンはホットケーキはよく食べたが、スープには殆ど手を付けなかった。仕方がないので私は鍋一杯のスープを胃袋に流し込んだ。胃袋の中で温い液体が重々しく渦巻くのが感覚された。

「お手洗いはどこかしら」

「あっちだよ」

 カメレオンが即座に答えたので、やはりこの部屋を変貌せしめたのは彼だろうと私は思った。カメレオンの示した先には、砂地にぽっかりと開いた穴があった。誰かが足を踏み外さないように、穴の周りにはとぎれとぎれに木柵が施されていた。

「お手洗いなのに個室じゃないの?」

 私は閉口して言った。

「だから、服なんか着るからだってば」

 カメレオンが何の同情も示さないので腹が立ったが、仕方がないのでキッチンからひと続きの砂地で私は用を足した。

 そこから予想出来たとおり、シャワーも同じ部屋の端に設置されていた。バイト先のイタリアン・レストランにたち込めるニンニクの匂いを髪の毛がたっぷり吸収していたので、私は念入りに髪を洗った。下方を見ると、私の跳ね散らかしたシャワーの雫を浴びて、カメレオンも一日の汚れを落としていた。そういえば彼は傘もささずに都会の汚い雨を浴びながら現れたことを私は思い出した。シャワーから上がると私はタオルで水滴を拭って、ショートパンツとTシャツを身に付けた。カメレオンは身体を震わせて水滴を落とし、そのまま悠々としていた。

 シャワーを浴び終わった頃には眠たくなっていたが、元の部屋にあった長方形のベッドとマットレスは姿を消していた。代わりに、虹色のハンモックが新たに天井から吊り下がっていた。

「ハンモックで眠って、床に落ちたりしないかしら」

 私は言った。 「ベッドから落ちる方がまだ有り得るね」

 カメレオンは答えた。私はその真偽を疑わしく思ったが、どちらにせよ床面は柔らかな砂地なので大丈夫だろうと考えた。

「それでは消灯しよう」

 カメレオンの声と同時に、視界が奪われた。部屋は暗闇の帳に完全に覆われた。

「まだハンモックに乗っていないのに」

 私は慌てて手探りでハンモックを探し、よじ登って、全身をそこに預けた。ハンモックのネットは身体の曲線に沿って弓なりにたわみ、後頭部から踵まで全く均等に分散して体重が支えられ、ハンモックは右へ左へと大きく揺れた。それはまるで中空を飛んでいるような、より正確には水中を泳いでいるような、奇妙な身体感覚だった。

「水中にいるのが奇妙だなんて、忘れっぽいにも程がある」

 カメレオンの声がして、私は下腹部に重みを感じた。

「そこにいるの?」

 私は尋ねた。

「さあね」

 カメレオンの声は言った。その声がどこから聞こえたのかよく分からなかった。

 ハンモックの揺れは収まることなく、大胆に動き続けているようだった。暗闇の中で目には何も見えず、手足は何にも触れなかったが、三半規管が揺れを感知していた。揺れはますます強くなり、そのうちハンモックは左右のみならず、縦横無尽に運動を始めた。下腹部に感じていた重みも、あるのかないのか分からなくなってきた。

「そこにいるの?」

 腹に重みがある気がしたときに腹に手をやってみたが、何にも触れなかった。逆に、重みを感じないときに手をやると、何か鱗みたいなものに触れた気もした。

「僕は居ると君が感ずれば君にとって僕は居る」

 カメレオンの声は歌うように言った。

「そのどちらなのかが分からない」

「そういうこともある」

 そのとき、ハンモックの紐が切れたかのように、急激な落下を感覚した。私は悲鳴を上げた。落ちても落ちても砂地に墜落することはなかった。しばらく恐怖したあと、突如、落下の感覚がなくなった。さりとて急激に落下停止した感覚もなかった。しかも、自分がうつぶせなのかあおむけなのか、どちらが上でどちらが下なのかすらも分からなくなってしまった。

「どうなってるの」

 私は夢中で尋ねた。拳を握りしめると、自分が手の平に汗をかいていることは分かった。

「ひと眠りすれば慣れる」

 その言葉に導かれて、私は逃げるように深い眠りに吸い込まれた。

 目が覚めたのは、目覚ましが鳴ったからでも、朝日を浴びたからでもなく、眠るに堪えざる殺気を感じたからだった。

 ハッと身体を起こすと、ハンモックがぐらりと揺れた。気を確かに持って砂地に降り立つと、半袖半ズボンからにょっきり覗いた自分の手足が極彩色のふわふわした毛並みに覆われていることに気が付いた。

 しかし今問題なのはこの殺気の源だった。それは極彩色の部屋を見渡すとすぐに分かった。カメレオンが一羽のニワトリを部屋の隅に追いつめて、今にも飛びかからんとしていた。殺気だったカメレオンの体表は白っぽい光を放っていた。

「一体何をやっているの!」

 私はまだ少し夢見心地のまま、思わず叫んだ。しかしカメレオンは私のことなど意にも介さなかった。ニワトリに逃げ場はなかった。カメレオンは慎重にニワトリとの距離を詰め、そして遂に飛びかかった。カメレオンは右の前脚に大きな丸石を握っていた。それを振りかぶり、ニワトリの頭を目がけて殴りつけた。ニワトリは昏倒し、カメレオンは満足げな溜め息を漏らした。

「一体何をやっているの」

 私はもう一度訊ねた。

「次の食事は鶏雑炊にしようと思ってね」

「それがあなたのやり方なのね」

「およそ全ての鶏肉は元々ニワトリなんだぞ」

 カメレオンは眉をひそめて言った。そして体色を元の極彩色に戻してから、ニワトリの羽を毟り、皮を剥き、前脚の爪で肉や臓物を切り分け、流しで血抜きをした。それから生の米粒を私に向かって見せながら、 「これは、あのニワトリが喰らっていた米粒の残りだ」  と注釈を加えた。昨晩はこの部屋でニワトリが生を営んでいたなんて気づかなかったが、今思えば少し獣臭かったかも知れない。

 雨雲は去ったのか、窓から太陽の光が降り注いで、室内の黒い砂地を温めていた。私はよく温まった部分を選んで腰を下ろした。しばらくすると暑く感じてきたのでTシャツやショートパンツを脱ぐと、やはり全身が様々な色の長く柔らかな毛で覆われていた。

 カメレオンは粛々と食事の準備を進めた。ニワトリの生前の食糧だった米粒と死んだニワトリを一緒くたにして煮込むと、旨そうな匂いが部屋いっぱいに充満した。最後に塩を加えると、素朴ながら味わい深い鶏雑炊が出来上がった。

 昨日と同じ器に雑炊をよそって私たちはゆっくりとそれを食べた。米は水をよく吸っており、すぐに胃は心地よく満たされた。太陽の光を吸った砂に腰を下ろし、色に溢れた部屋を見渡し、私は心から寛いだ。私は普段は比較的寡黙な方だが、いつになく饒舌になり、あることないことを止めどなく喋った。カメレオンは砂の上で黒くなって寝そべって、偶に相槌をうちながら、私の話を面白そうに聞いていた。

「XXXXX XXXXXXXXXX」

 突然、カメレオンの言葉が、理解不能な音声に変わった。

「えっ?」

 私は聞き返した。

「XXXXX XXXXXXXXX」

 カメレオンは同じような音声を繰り返した。私は不意打ちで聴覚を失ったように感じ、心細くなった。

「何語を喋っているの? カメレオンの言葉?」

「XXX XXX XXXXXX? XXX XXXXXXX!!」

 カメレオンは笑いながらまた何かを言った。私は困惑した。もしかしてカメレオンの音声ではなくて、私の聴覚がおかしいのだろうか? それとも私の言語野がおかしくなってしまったのだろうか?  カメレオンはなおも笑い続け、何かを喋りつづける。

「私の知らない言葉で喋らないで!」

 私は必死で言った。しかし、自分の言葉であるはずの音声が相手に理解されているのかも疑わしかった。カメレオンは一体どうして笑っているのだろうか? ぎょろりとした両目、のっぺりした鼻先をいくら見つめても、何も内心は読めない。一瞬前までは何も問題なく理解しあっていたはずなのに、今現前するのは完全に内部の不可知なる存在だった。相互に行き交う思念はそこにひとつもなかった。私の唇の淵を離れた音声は虚ろに空中を震わせて消えるだけだった。

 カメレオンは相変わらず笑っている。いつの間にか天井に重たげな雲が湧いている。間もなく雲は大粒の雨を降らせ始めた。雨は部屋中のあらゆる場所を濡らし、黒い砂の床には濁った細い川が流れ始めた。カメレオンの鱗は水滴を弾きとばしたが、私の毛並みは水に濡れてべったりと身体に纏わりついた。毛足が体積を減らすと、自分の身体は随分と痩せて小さく見えた。私は余りに心細くて涙を流したが、雨はすぐさま涙を洗い落とす。カメレオンはやはり、音声を発しながら呵々大笑している。

 部屋の中は暗雲が垂れ込めていたが、部屋の外からはまだ太陽の光が差していた。やがて太陽の光を受けて部屋の中の水滴は華やかな虹を映し出した。カメレオンは嘲笑うのを止めて、改まった表情で私に向き直った。

「虹の色は何色でしょう」

 カメレオンは真剣そのものに問うた。

 私はしばし考えたが、すぐに答えに気付いた。

「月に秋はあるかねぇ」

 すると、涙は止まり、雨は止み、虹は消え、私の毛並みは乾いてふさふさと波打った。カメレオンは祝福するように私に歩み寄り、私たちは握手を交わした。残ったのは永遠にこの部屋の中だけで過ごしたいという穏やかな欲求だけだったのに、空間はゆがみ始め、曲線はまっすぐに直り、色彩は白色に統一され、黒い砂地は固く平らになった。柔らかだった毛並みは皮膚の中に吸い込まれていった。

「もうこんな部屋に住める気がしないのに!」

 私は悲しみにくれた。不自然な四角四面に全ては回帰しつつあった。

「たとえ幾度眠っても慣れてはいけない」

 カメレオンは言った。

「あなたはこの部屋そのものだったのでしょう、いかないで」

「少なくとも君は僕を感知していた、僕は死んだりしない」

 そこは東京のワンルーム・マンションの白い部屋で、窓の外では秋雨が薄っすらと街に降り注いでいた。棚の中を確かめるとホットケーキ・ミックスは一袋残っていたが、牛乳はなかった。私は味気ないキャベツを齧って食べた。明日の朝にはまたイタリアン・レストランのバイトのシフトが入っている。白と黒の制服を乾かしておかなくてはならない。私はそこで一体何を感知するのだろう。

(了)