うたうゆびづくり/無色の国旗

1. うたうゆびづくり

どうしても、鍵盤に向かって半泣きになりながら日暮らし音楽を切り刻み再構築を続けるくらいの気迫が欲しいのである。それは能力に見合った音を卒なくうたいあげるような手すさびであってはならない。技巧を尽くして足の裏の腱が震えるような背伸びをして舞台に臨み、結局ゆびがもつれ掠れた音を滑らせながら体勢を立て直す瞬間を切望しているような緊迫が欲しい。

子どものころ何度も鳴らしたオルゴールの音楽は忘れてしまったが、機械仕掛けの女の子がバイオリンの弓を規則的に動かす様子だけは記憶している。彼女は決して誤らない。木綿の髪の毛は生気を欠いて鮮やかに紅い。初め、子どもは音楽が止まるたびにネジを巻く。しかしいつしか子どもは児童書に没頭し、アップライトピアノの上で彼女が弓を不格好に傾かせたまま息をひそめているのに気づかない。

この世界でこの言語を用いる人間はどうやら1億人かそこららしい。この事実に対して楽観的でいたければ、もし何かを解釈する最良の方法があるとしたらそれは翻訳であると認めればよい。日本語を翻訳できない人間はどうやら1億人かそこららしい。日本語の文章を見つめ、日本語への翻訳を執拗に試み、それがどうしても不可能だと気付いたとき、それは悲しくも勝利である。母国語によって限りなく隔てられている同胞たちはこの世界に一握りしかいないという孤独な朗報である。残りの数限りない人々は日本語を最良の方法で解釈できるのだという、それは喜ばしい知らせだ、しかし、本当に楽観的でいられるのだろうか……最良の方法はさして優れてはいない。

私の目の前で外国語をうたいつづける人間の顔が無数に駆け巡る、分かる言葉を歌ってくれと私は懇願する、すると背後から何か見知ったうたが聞こえる、私は弾かれたように後ろを振り向く、しかしいくら振り向いても見知った歌は背後からしか聞こえないのである。顔を見せてくれと私は絶叫する、目の前の異邦人の顔は無残な微笑みを見せながら数を増やし私に接近するが、それでも分からないうたは分からないのである。すると背後の顔が目の前に現れた、そして私に虚ろな顔でうたいかけた、それは見知ったうたであった、しかしその顔は木綿の赤毛のあの少女で、私は必死にその視線を逸らす、違うのだ、聞きたいうたはこれではない、背後から聞こえている、あれらのうたをうたう顔が見たい、どうか現れてくれ、しかし異邦人と少女たちは増殖を繰り返しながら私の視界を埋め尽くし、耳管は受け入れがたい合唱にはち切れんばかりで、ついに切実な願望は果たされない。

2. 無色の国旗

世界が蝕まれ続けていると知らせる情報を拙い外国語で受け入れながら、一方で空虚さから解放され得ない。目新しさに踊らされる空虚。世界がまさに人知れず(いや皆知っている、知らぬ振りだ)直面している矛盾に私が対峙することを世界は拒みはしないだろう(世界が何かなんて言えたものではないが長い目で見れば歓迎されるだろう)、だが私が敢えてそうする必要性は皆無だ。その困難の真新しさに目が眩んでいるのだ。国々の官僚たちは日夜集って協調あるいは勝利を求めて額を突き合わせている、結局のところそういった前線を見ることに躍起になっていたのだ、子どもの野次馬のように。新しき事態の語感にかぶれている。されど気付くべきだろう、こういった現在起こり続けている変革は何か特別な出来事に思えるが本当は構造的な変化の諸側面に過ぎない。構造的な変化、すなわちなるべくしてなる変化、何か今誰かの意志によって特別な偉業が成し遂げられようとしているわけでは決してないという事実! 起こりうる何かは全て何物の手にも依らずただ構造的に起こるのだという事実! 別に因果律を信奉するわけではないが他方で偉人が偉人たり偉業が偉業たるのはより大きな構造の手に大きく因っている。
 私は多少の誇りのある自らの学びが大きな構造を前に殆ど意味を為さないことを認めねばならない。私は自らの思考が他の誰によっても簡単に再現されうることを認めねばならない。私は確かにここで何かを学んでいるけれどもそれすらも構造の内部にあること、それもいくらでも代替の効く一部分として思考しているに過ぎぬことを認めねばならない。けれどもそう自認することは他ならぬ自身に対する救済だ。それを綴ることは安息だ。そのための思考と言葉は鋭くならなくてはならない。それを研ぎ澄ます訓練こそを私は希求している。

 

ロンドン、国際都市の真ん中で国際の虚像に振り回され続けているのは決して私だけではないだろう、道徳的で優秀で健やかな人間が一見して公正かつ平等に所狭しと蠢き、グリーンベルトに護られたビル群が世界中からカネを汲みだし送り出そうと目論み、正義に裏付けられた理想を叫ぶ言葉が相克する現実も理想の破れそれすらも上書きする都市――世界中が抗いようなく巻き込まれていく国際の矛盾を彫り込まれ刷り増し続けている。盲目な正義が塗り潰すのは正義の代償だけではない――正義に慣れ切ったがためにあらぬ場所に撒き散らかされた吐き気のするような色に気付きもしない。外部の人間は気付きうるかもしれない、正義の暴力の犠牲者だけではなく、その正義の罪を勇敢に背負う者も――しかしだからといって誰が指摘しようか? 化けの皮を剥がすことは誰の利益にもならず、追随するほど富と名声が手に入る構造で均衡しているのだ、そして均衡に巣食う蟲が世界に蔓延っているのだ、そして蟲の聖地がこの場所なのだ――重厚な歴史に師事する優等生ぶって世界中に笑顔を振り撒いている。それでも学生の間くらい疑ってかかり嫌悪を顕していいだろう、いずれはこの構造に飲み込まれようとも。むしろ手を貸してしまう道を選んだのかもしれない、だってそれが正しいように見えたのだ。手遅れなのだろう。でもせめて自覚的でありたいのだ。