フライトを逃すわけにはいかなかった

 異国の空港のターミナルを私は全力疾走していた。ところが走っても走っても前進しないのだった。今思えば、「動く歩道」を逆向きに走っていたのかもしれないし、或いは預け荷物返却所のベルトコンベヤを逆走していたのかもしれない。或いは突然地球とあらゆる創造物が自転をやめて、私だけが慣性の法則に従って逆向きの力を受け続けていたのかもしれない。それに私はここのところ運動不足でろくな脚力が無いのだった。それも相俟って、空港のターミナルに対して有意な割合で走ることができていないのかもしれなかった。私は太ももと脹脛と土踏まずにあらん限りの力を込めて動かしていても傍から見れば殆ど無意味な超スローモーションなのかもしれなかった。気管支のあたりがきりきり痛むほど早く深く呼吸をしてブドウ糖から動力を取り出していてもそれは確かに空港全体の熱量の動きからすれば誤差に過ぎないのかもしれなかった。
 しかし理屈はどうだって構わないのだ。ただ私はどうしてもそのフライトを逃すわけにはいかなかった。その異国にそれ以上滞在すると権力にも似た何かから厳しい制裁を受けることが確実であることが分かっていた。だから私は怯えていた。誰に罰されるのか、どうして罰されるのかは分からなかったが、何かに怯えている人は誰しも、自分が何に対して怯えているかなんてわからないのではないか? もし因果関係が明確ならば何も恐れることはないのではないか? それでも今日もあらゆる場所で様々な人が怯えているのは、私たちのちっぽけな脳みそに可能な理解の範疇を超えたことに世の中は満ちているからだ。私の恐怖の対象もそうした不明瞭な実体であった。いずれにせよ私はその場から逃れなければならなかった。この一回きりのフライトを逃してしまってはもう救いのないことが明らかだった。
 それなのにやはり私は前進できなかった。巨大なスーツケースを引っ張る右腕は千切れんばかりで、リュックサックは揺れるたびに肩の肉に食い込んだ。体はどうしようもなく発熱しこめかみの皮膚に米粒くらいの穴が開いたんじゃないかと思うほどの勢いで汗が滔々と流れだしていた。私は長年愛用してきたその傷だらけのスーツケースを手放した。私は振り返らなかったけれどもスーツケースはすごい勢いで私の後方へ滑っていって消えた。それからパスポートと航空券だけをジーパンのポケットに捻じ込んで、リュックサックも置き去りにした。そうするとやはりリュックサックは後方へと流れるように消えていった。私は太宰のメロスみたいにジャケットを脱ぎ捨てた。汗を吸い込んで重量を増していたジャケットは雫を散らしながらやはり後方へと舞って行った。
 いくら身軽になってもやはり前に進まないのだった。前方のデジタル時計の赤い文字は着実な時間の経過を明示していた。チェックイン時刻まであと5分。4分。リュックサックを捨てる前にペットボトルの水を飲んでおけばよかったと思ったが細かいことを悔いている場合ではなかった。このフライトを逃したときのことを考えると喉の渇きも身体の痛みも霞むほどだった。あと3分。2分。絶望を掻き消すようにして私は脚を動かし呼吸に努めた。
 時計があと1分を示したとき私は何かに足を取られて転げ、硬質な床に身体が投げ出された。これではとても間に合わないと私は唇を噛んだ。すると隣でひとりの人間が無表情に跪いて転げた私を見ているのだった。よく見知った顔だったので私は途端に安心してしまった。それは祖国の人間だった。その人物は表情を変えずに私を助け起こし、その袂から小さくて無害そうなナイフを取り出した。そうして自分の左手の人差し指と、私の右手の人差し指を、それぞれそのナイフで傷つけた。そしてその生の傷口を重ね合わせて固定した。私は何が起きているのかよく分からないまま、先ほどまでの不安が奇妙なまでに引いているのを感じていた。そのまま私たちは空港のフロアで蹲って指先を重ね合わせていた。言いようのない幸せに胸が満たされて私は動くことができなかった。
「もう十分な血液が供給された」
 とその人物は祖国の言葉で言って、指先を離し、白いハンカチで互いの傷口を拭い、それから立ち上がって、私を助け起こした。促されるままに私は歩いてゲートをくぐった。ゲートの向こうで少し蒼ざめたその人物が私に手を振っていた。その人物が飛行機に乗るつもりがないことに私は気が付いて肩を落とした。結局のところこの国を出たところであれから逃れられるかどうかは分からないのだと私は悟った。搭乗を促すアナウンスが鳴り、私はゆっくりと踵を返した。