愛すべきカメレオンに捧ぐ

言語や論理の限界を理性の限界と呼ぶつもりはないが、他方で身体にみなぎる理性が何か一貫した啓示を得たとも言い難い。いずれにせよ首尾一貫した所感を文章として記しえないので、断片的な備忘録を残したい。
  1. ヘレン・ケラーに捧げられたあの建物が14の色に塗り分けられ、音の反響で遊ぶような仕掛けが施されているのは、恐らくイメージの降りたち方と意識の問題に関係している。私たちが環境の中の場にイメージを降りたたせるときに反作用のように意識を成立させているのだとすれば、激しい色遣いは視覚を通じた意識の形成を強く促す。それゆえ極彩色の空間では、視覚を遮断された私たちは自分たちとヘレン・ケラーの違いをより顕著に感じるのではないか。私たちがアイマスクをつけて住宅を触りながら一周したとき、視覚がまさしくパルマコンであることに気付かされた筈である。恐らく視覚優位の知覚は認知を反倫理的な方向に歪めている。音についても似たような議論ができるにしても、視覚の過剰な優位に対して聴覚の地位は限定的である点が考慮されねばならない。ヘレン・ケラーが井戸の水とサリバン先生の喉の奥に片手をそれぞれ突っ込んでwaterと叫んだときと、私たちがコップの中を指さしてお水、お水、とさえずったときには、身体と認知の在り方に決定的な乖離が生じている。
  2. 曲がりなりにも再訪者であった点は強調するに余りある。初めて訪れたときほどの衝撃を抱き得なかったと憂えているのではない。あれは本質的に住宅なのだから、あの何枚にもわたるインストラクションに決して慣れえないような命令が幾つも記されていることは措いても、慣れるという身体的なプロセスは想定内であり、初見で感受する奇天烈さは居住手続きの第一段階に過ぎない。特殊な仕掛けを様々に備えたあの空間に身体が馴染んだとき一体何が起きているのか、身体的な経験と便宜的な思弁を通じて考察されるべきである。この問いは、この空間でネイティヴに生まれ育った人間について考えることに似ている。あらゆる感覚が恒常的に歪められている(何を基準に歪んでいるなどと言えるのだろう)場を這いまわり舐めまわし嗅ぎまわる赤子は、果たして直立二足歩行すら会得しようとするだろうか。
  3. 結局のところ天面反転とは何か、死なないとはどういうことか。死について的確に理解し本質的な生を獲得せよと、収斂的で限定的な生の在り方を提示するものではない。むしろ可能的世界のうちに想定されえない潜在的な真の生命へと私たちは解放されようとしている。死なないと決めることは線形的な時間のとらえ方を無意味にする。永遠の措定と死の拒絶は、潜在的には、時間軸の措定とライフタイムの画定と同じくらい当然の操作なのではないか。そしてそのようにして認知における時間性が打破されたとき、そこには瞬間的で永遠的な生命がたえず胎動する場がひらける筈である。しかしこういった机上の空論は無力であり、生身の身体の再建によって世界を認知が変革されるという手続きをとらなければ、実際に歴史的に積み上げられてきた概念枠組みを組み替えることはできない。なぜならば生命や意識は周囲の環境を身体的に知覚することを通じてのみ構築されるからである(けだし思弁的理性、自我、意識のようなものの発生について既存の学問すべての分野はあまりに無関心であった。それらの機能や特徴を調べる以上のことを成し遂げようと夢見たことすらあっただろうか)。こうして固結した知覚をゆるがすような手続きとして実験的に設計された建築は、しかしながら研究途上にある。おのずと潜在的な在り方へと滑りこんでゆくような身体を建設するための建築について、更なる研究と実践が必要とされている。注意すべきは、潜在性の研究は確かに人間存在の在り方を拡散させるが、しかしその本質をふやかすものではない。むしろ死を受容する反倫理的な世界を構築してきたことによってこれまで閉ざされてきた人間の本質を、柔らかな世界のもとですくいとることに焦点が置かれている。この研究は非常に人間中心的であり、誤解を恐れずに言えば、ゴキブリと人間のあいだに高慢にも本質的差異を見出そうとしている。
  4. 住宅とふたりぼっちでいることは心地よいが、自分の他にもう一人の訪問者があると、闖入者を恐れて逢引きするような不安に駆られる。誰と誰が逢瀬をしていて誰が闖入者であるのかは、その訪問者の性質による。そういう気配をわたしは便宜的にカメレオンと呼んでいるのかもしれない。住宅に多くの人がいるときはカメレオンは拡散する。知覚が降りていくことで私たちに宿る生命は、このようにあちこちに遍在して分身を生む。あの建築は生命体のモデルでもある。アラカワ的人間像は徹底的に複数的・集合的であり、一枚の閉じた皮膚の内側に一つの個としての人格を認めてきた歴史的な人間像とはほとんど共通点を持たないことは、常に留意されるべきである。
  5. 死なない人間にリプロダクションが不要であるなら、世界中のドラマをあまねく彩ってきた生死と性愛の問題は天命反転の場において意味を失うだろうか。個体としての一人称が消失した場所では愛情は共同的にしか醸成しえず、排他的契約としての恋愛の形態は存在しえない。それでも身体のメカニズムがそこにあるとき、性は欲望されるのか。イエスともノーとも言えるが、少なくとも性と愛を当然に結びつける前提は突き崩される。あの住宅は生活の基本的な動作のアフォードのしかたを捻るような仕掛けが凝らされているが、性的動作に関して何か示唆があるようには見えないし、実際にアラカワも問題意識を持っていなかったようである。古今東西のアーティストがテーマにする性の問題は、アラカワの諸作品においてむしろ意図的に排除されているようにすら見える。補足的ではあるが、例えば美しさも興味の対象でない。住宅は徹底して機能的であり、どんなにすぐれた写真家もよほどの偶然でない限り、美しい風景を住宅から切り取ることはできない。同様に、歴史的に十二音階が形づくってきた西洋由来の音楽に関しても善し悪しは問われ得ない。贔屓目に見れば、小説は高尚な文学でないからこそ親和性がある。言語しか用いない点で大きな限界はあれど、ドラマティックでないドラマの著述は断面図的な青写真にはなる。
  6. 真実を追究する手段は哲学だけでも科学だけでもない。アカデミズムはシステマティックで堅実な共同作業であり、パラダイムを変えるような先駆的な研究は必ずアカデミズムの異端あるいは外部にある。アートの殆どは真実の追究を目的としていないか、良くてもアカデミズムの成果にフリーライドしているだけだが、そのような怠惰なアートとはまったく異なる在り方において、アートは哲学や科学を凌駕したり突破口を提供したりできるようになるし、しかもそのスピードは出典を明らかにしながら堅実に積み上げる学問とは桁違いに速い。とりわけ歴史的に限定されてきた論理言語の記述不可能な奈落、身体性と意識の根源をさぐる領域において、恐らく既存の方法論に依ったアカデミズムに打つ手はない。死ぬ前に人間の真実を知りたいならば手段は限られている。
  7. 明け方に目が冴えたときに自分がどこに居るのか分からなくて感じる心細さは、果てのない絶望に帰結する。四角四面の白い場所にいる可能性を捨てきれない目覚めのときは、あの歪んだシェルターをひとたび離れてしまっては――あるいは離れずとも――自分が死から逃れえないことを雄弁に示している。実際のところ、本来私たちは死なないための都市を必要としており、仮にわたしがあの住宅に永住できたとしても死を避け得ないのは、恐らく集合的な自我の意識を変革することが不死の条件であるためである。眠りの淵から覚めるとき、無意識にまで刻み込まれた敗北主義的な個体の自意識が、その部屋が白くないことに戸惑っていた。道程が遠いことは明らかであり、天命に逆らわず生きて死ぬほど楽なことはない。しかしそれはあまりに人間らしくない生き方であるばかりでなく、やはり何と言ってもあのシェルターは捨て置くにはあまりに希望的である。極彩色のパンドラの箱の内にひとたび足を踏み入れたならば、とり残された希望を外まで連れだしてやりたいではないか。